四僧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
清代初期に活動した画家の中には、正統派の「四王呉惲」とは別に、個性的な画風を持った一群の画家がいた。このうち、出家して僧籍にあった八大山人、石谿(せきけい)、弘仁(こうじん)、石濤(せきとう)の4名を四僧と称する(八大山人は後に還俗した)。 八大山人(1626 – 1704/1705年)は南昌府の人で、明宗室の後裔である。俗姓は朱。画家としては朱耷(しゅとう)とも称されるがこれは通称で、譜名(系図上の名)は朱統𨨗(𨨗の漢字は「林」の下に「金」)、僧名を伝綮(でんけい)、字を刃庵といった。八大山人は晩年の号で、この名でもっともよく知られるが、他に雪个・个山・人屋とも号した。19歳の時に明が滅亡したが、彼は僧となって難を逃れた。50歳代のある時、精神を病んで僧衣を引き裂いて還俗し以後は貧窮の中で画作を続けた。反骨精神を筆に託し、明の徐渭などの写意の花鳥画をもとに、晩年に至って独特の画風を作り上げた。代表作は1694年(69歳)作の画帖『安晩冊』(京都・泉屋博古館)で、山水、花鳥、蔬果、虫魚などの伝統的モチーフによりながら、意表を突いた構図、一気呵成に引かれた線などに独自の世界を見せる。 石濤(1642 - 1707年)は広西全州(桂林)の人。本名は朱若極、出家後の法名は原済。石濤は号である。大滌子(だいてきし)、苦瓜和尚(くかわしょう)などとも号した。明の王族の末裔であり、明滅亡期に父を殺害された。後に出家し江南を遍歴。康熙帝の南巡(江南地方視察)の際に帝に謁見し、北京の宮廷に招かれて3年ほど滞在したこともあった。晩年は揚州に定住し、売画で生活した。黄山などをテーマとした山水画を描いたが、画風は北宗画・南宗画のいずれにも属さない「我法」(先人に倣わず、自らの画法で描くこと)にこだわった。上述の八大山人とは、直接会ったことはないが、石濤から八大山人に送った書簡が残っており、間接的ながら両者の合作の絵もある(八大山人の描いた蘭に石濤が竹石を描き足したもの)。なお、石濤の生没年には諸説あるが、1642 - 1707年とする新藤武弘説が有力である。石濤の画名は生前から高く、そのために偽物が非常に多いことで知られる。代表作は『廬山観瀑図』『黄山八勝図冊』『黄山図巻』(以上3点は京都の泉屋博古館蔵)など。 石谿(1612 - 1692年頃)湖南武陵(常徳)の人。出家後の法名は髠残(こんざん)、俗姓は劉。石谿は字である。明初の四僧の中ではもっとも本格的な仏教者である。渇筆を用いた王蒙風の山水をよくした。 弘仁(1610 - 1663/1664年)は安徽歙県(きゅうけん)の人。弘仁は出家後の法名で、俗姓は江、名は韜(とう)。漸江(ぜんこう)と号する。絵は元末四大家の倪瓚を学び、人気(ひとけ)のない岩山、絶壁から伸びる孤松などの独特のモチーフを描いた。査士標らとともに新安派と呼ばれる。
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