黒川古文化研究所
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![]() Kurokawa Institute of Ancient Cultures | |
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施設情報 | |
正式名称 | 黒川古文化研究所 |
専門分野 | 美術 |
収蔵作品数 | 中国・日本の美術工芸品・考古歴史資料 約2万点 |
館長 | 岡村 秀典(所長) |
研究職員 |
川見 典久 馬渕 一輝 飛田 優樹 伊藤 啓介 |
管理運営 | 公益財団法人黒川古文化研究所 |
開館 | 1950年10月 |
所在地 |
〒662-0081![]() |
位置 | 北緯34度45分45秒 東経135度18分33秒 / 北緯34.762465973286936度 東経135.309264760695度北緯34度45分45秒 東経135度18分33.1秒 / 北緯34.76250度 東経135.309194度座標: 北緯34度45分45秒 東経135度18分33.1秒 / 北緯34.76250度 東経135.309194度 |
外部リンク | http://www.kurokawa-institute.or.jp/ |
プロジェクト:GLAM |
公益財団法人黒川古文化研究所(くろかわこぶんかけんきゅうじょ)は、兵庫県西宮市苦楽園にある東洋古文化の研究・展示機関である。中国と日本を主とした美術品の保存と研究と公開展示を目的に1950年に芦屋市に設立され、1974年に現住所に移転した。春と秋に各約1ヶ月間の展覧会開催の他に、出版物刊行も手掛けている。また、展覧会期間中の研究所内での講演会開催以外に、外部での講演会などの活動も行っている。
収蔵品

収蔵品は、大阪で証券業を営んでいた実業家の黒川家が3代にわたって収集したものであり、2代目の黒川幸七が収集した日本と中国の美術工芸品を中心とする。コレクションには国宝 2件、国の重要文化財 16件(162点)、重要美術品 62件(78点)を含む。貨幣、書画、刀剣、銅鏡など収蔵品の分野は多岐にわたるが、中でも日本刀は質量共に屈指のコレクションと評価されている。
以下に、主な収蔵品を挙げる。
国宝
- 短刀 朱銘貞宗 本阿花押(名物伏見貞宗)(鎌倉時代)
- 短刀 銘来国俊 (鎌倉時代)
重要文化財
- 刀剣・刀装具
- 太刀 菊御作(鎌倉時代)
- 太刀 銘備前国長船住景光 (裏)□□月 日(鎌倉時代)
- 太刀 銘大和則長作(鎌倉時代)
- 刀 無銘 伝・行光(鎌倉時代)
- 刀 無銘 伝・行光(鎌倉時代)
- 太刀 銘国光(鎌倉時代)
- 刀 無銘 長谷部(南北朝時代)
- 刀 銘慶長九年十一月吉日信濃守國廣作 依賀茂祝重邦所望打之(安土桃山時代)
- 太刀 銘一(鎌倉時代)
- 太刀 銘包次(鎌倉時代)
- 豊干禅師図鐔 銘安親 (江戸時代)
- 書跡
- 紫紙金字金光明最勝王経 巻第三(奈良時代)
- 伏見天皇宸翰願文(鎌倉時代)
- 絵画
- 寒林重汀図 伝董源(中国五代)
- 考古資料
- 羽黒山御手洗池出土銅鏡 140面(平安時代)
- 碧玉製模造品弓矢等 8箇 伝奈良県天理市布留出土(古墳時代)
創立者
黒川家は大阪の株屋で、初代黒川幸七(1843-1900)が1863年(文久3年)に大阪で両替商を始め、1878年(明治11年) に黒川幸七商店として大阪株式取引所の開設メンバーとなり、1918年(大正7年)に株式会社黒川商店、1949年(昭和24年) に株式会社黒川証券と改称、1977年(昭和52年)に合併して黒川木徳証券となった(現・あかつき証券)[1]。初代の次男の2代目幸七(孝吉、1871-1938)が集めた刀剣コレクションに、3代目幸七(福三郎、1893-1961)が集めた古美術などを加えて黒川古文化研究所を開いた[2]。3代目は東京深川の米穀問屋・木村徳兵衛の三男で、2代目の娘・いく子の入婿[3]。3代目没後はいく子が4代目を継いだ[3]。
所在地
〒662-0081 兵庫県西宮市苦楽園三番町14-50
交通アクセス
一般公開は春(4月中旬〜5月中旬)・秋(10月〜11月)の展覧会(春秋とも約1か月間)開催時のみ。
周辺施設
出典
関連項目
- ひょうごっ子ココロンカードの対象施設になっている。
外部リンク
固有名詞の分類
- 黒川古文化研究所のページへのリンク