鷹峯
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鷹峯[† 1](たかがみね)は、京都市北区の鷹峯街道(京都府道31号西陣杉坂線)を中心に広がる地域名である。また、その西南方に連なる丘陵の名称でもある。本項では同地域にかつて存在した愛宕郡鷹峯村(おたぎぐん たかがみねむら)についても述べる。
注釈
出典
- ^ 京都地名2005 p.183 :『稚狭考』(板屋一助、1767年)「(小浜から京への道は、)丹羽八原通(現在の南丹市美山町知見)に周山をへて鷹峰に出る道あり。」
- ^ 京都地名2007 p.95 :『山城名跡巡行志』(浄慧、1754年)「長坂越一名山国路、長坂口至杉坂二里十三町。自杉坂至西河内。西河内ヨリ峠桑田郡界十九町。出丹波山国下村」
- ^ a b 佛教大学 渡邊秀一研究室[リンク切れ]
- ^ 京都地名2005 p.122 京都地名2010 p.15
- ^ 平成22年度 北区運営方針 (PDF)
- ^ a b c 京都市情報館 北区役所 リレー学区紹介-鷹峯学区
- ^ 北区の現状と課題 平成21年9月 京都市北区役所 (PDF) [リンク切れ]
- ^ “京都市北区 歩くマップ エリアCのスポット 鷹峯の山”. 2007年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
- ^ 京都地名2010 p.83 :『雍州府志』(ようしゅうふし、1664年)
- ^ a b 京都地名2010 p.83 :1711年(正徳元年)刊行『山州名跡志』(白慧(坂内直頼) 撰)
- ^ 京都地名2010 p.83 :『日本三代実録』874年(貞観16年)8月24日条、1714年(正徳4年)刊行『新撰増補京大絵図』に記載
- ^ 京都地名2010 p.83 :『類聚国史』833年(天長10年)9月25日条「(仁明)天皇栗栖野に行幸し遊猟す。綿子池(わたごいけ、大宮釈迦谷地内 現在の尺八池付近)に行幸す。調養する所の隼(はやぶさ)を放ち水禽(すいきん、水鳥)を払う」ほか、栗栖野の地で遊猟したとの記述が複数存在する。
- ^ フィールド・ミュージアム京都 KI005 平安遊禽綿子池旧跡
- ^ 京都地名2010 p.84
- ^ 京都地名2010 p.337
- ^ “第1回小野陽太郎さん「風の音を聴く」”. Slownet. 2012年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
- ^ 京都地名2007 pp.64-65
- ^ 『本阿弥行状記』(五十二段)「近江丹波などより京都への道に、用心あしき、辻切追はぎをもする所あるべし」
- ^ “京都域粋66号 『鷹ヶ峯 光悦村』” (pdf). 2016年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
- ^ 京都地名2010 p.85
- ^ 『「鷹ケ峰薬園」(江戸期)ここに』 京都新聞2011年7月7日
- ^ フィールド・ミュージアム京都 KI069 鷹ヶ峰薬園跡
- ^ 鷹峯児童公園前に掲示された説明書き『京七口の一つ長坂口(この辺りの様子)』「本阿弥家が幕府に返上してから間口の広い屋敷には京や丹波からの商家が移り住む様になり材木問屋、薪炭問屋、米屋、たばこ問屋等々が営まれいた(原文ママ)。船の着かない港と云われていた一時期もあった。」
- ^ 市区町村変遷情報 詳細データ
- ^ 鷹峯児童公園前に掲示された説明書き『京七口の一つ長坂口(この辺りの様子)』
- ^ “京都市立鷹峯小学校PTA事務局”. 2012年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
- ^ a b 京都市情報館 北区役所 わたしたちのまち北区-鷹峯学区だより
- ^ 京都市教育委員会事務局総務部 「鷹峯小学校 念願の拡張敷地造成工事 いよいよ着工!」 (PDF)
- ^ 『移転工事終わり竣工式、北区の鷹峯小』 京都新聞2011年6月5日
- ^ 『鷹峯小のグラウンドやプール完成 校舎に近接』 産経新聞2011年6月5日
- ^ 京都地名2010 p.15
- ^ 京都府 鷹峯とうがらし
- ^ 京都市情報館 いきいき北区プラン・フォローアップ事業 活動状況[リンク切れ]
- ^ 『京都・北区に“最強”の「激坂」 サイクリストも畏怖 つくったのは江戸時代の文化人?』 京都新聞2023年5月4日
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