雷緒
(?~209) |
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建安五年(二〇〇)、廬江太守李術が叛逆して揚州刺史厳象を殺害すると、陳蘭・梅乾らとともに軍勢数万人を集めて李術に荷担し、長江・淮水流域の郡県を破壊した。曹操は新たに劉馥を揚州刺史に任じたが、劉馥は空っぽになっていた合肥城に乗り込み、雷緒らを手懐けると、雷緒らは軍勢をこぞって彼に服従した《劉馥伝》。 同十三年、劉備は周瑜とともに赤壁において曹操を撃退すると、劉琦を荊州刺史に任命するよう上表したうえで、長沙・武陵・零陵・桂陽の四郡を攻略したが、このころ雷緒は部曲の民衆数万人を引き連れて彼に服従している《先主伝》。 十四年三月、曹操は孫権征討の軍勢を起こしたが疫病の流行に苦しみ、十二月になると軍勢を引き上げた《武帝紀》。曹操は揚州各県の長官を任命するとともに、夏侯淵に将軍たちを率いさせて雷緒らを攻撃させ、その結果雷緒は敗北した《夏侯淵伝》。 【参照】夏侯淵 / 厳象 / 周瑜 / 曹操 / 孫権 / 陳蘭 / 梅乾 / 李術 / 劉琦 / 劉備 / 劉馥 / 雷薄 / 合肥侯国 / 荊州 / 桂陽郡 / 赤壁 / 長江 / 長沙郡 / 武陵郡 / 揚州 / 零陵郡 / 廬江郡 / 淮水 / 刺史 / 太守 / 領軍 / 行 / 部曲 |
雷緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 15:16 UTC 版)
雷 緒(らい しょ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の部将。揚州廬江郡の人。袁術軍の雷薄と同一人物の可能性もあるが、活動時期が異なる点などを踏まえ、別人として本記事を作成する。なお、雷薄とは血縁関係にある可能性もある。
事跡
姓名 | 雷緒 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 揚州廬江郡 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→曹操→劉備 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
後漢末期に廬江を中心に活動した独立勢力指導者である。
建安5年(200年)、雷緒は陳蘭・梅乾(梅成、あるいは梅成の縁者か)と共に、廬江太守の李術(または李述)が揚州刺史の厳象を殺して管轄地域が混乱した隙に、数万人の兵を集めて長江・淮河一帯で暴れ周った。その後、曹操が派遣した新任の揚州刺史として劉馥が赴任すると、雷緒・梅乾は一旦これに降っている。
建安13年(208年)、廬江に駐屯していた雷緒は数万の軍勢を率い、荊州南部4郡を制圧したばかりの劉備に帰順した。この同時期に、雷緒は曹操軍の夏侯淵から攻撃を受けて敗北したが、これが劉備への帰順前か後かのどちらの時点での事なのか不詳である。
以後、雷緒の名は史書に見当たらない。また、雷薄と同一人物でないならば、雷緒は小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
雷緒(らい しょ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
揚州廬江に勢力を持っていた地方群雄。浣城に入って曹操軍に抵抗するが、夏侯淵に敗れて捕えられる。夏侯淵との問答の末、劉備に送りつけられる。許褚の人物評では「鈍牛」。
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