厳象
もともと博学聡明であったうえ、胆力もあり、建安年間(一九六~二二〇)の初め、同郡の路粋とともに尚書郎に抜擢される《荀彧・王粲伝》。同郡の趙岐は『三輔決録』を著したが、当時の人々が理解できないことを恐れ、ただ厳象だけに見てもらった《荀彧伝》。 荀彧に才能を評価されて曹操に任用され、文武両才に秀でていたので、督軍御史中丞となって袁術討伐にあたったが、ちょうど袁術が病死したので、厳象はその地に留まって揚州刺史に任じられた《荀彧伝》。 曹操は袁紹と対峙していたので、背後の孫策を手懐けようと考え、孫氏の子弟と縁組みを結んだ。また同時に、厳象に命じて孫権を茂才に推挙させた《討逆伝》。孫策は廬江太守劉勲を追放して李術を太守としていたが、孫策の死後、李術は孫権に従わず、揚州刺史厳象を殺害した《荀彧・劉馥・呉主伝》。建安五年(二〇〇)、厳象が三十八歳のときのことであった《荀彧伝》。 【参照】袁術 / 袁紹 / 荀彧 / 曹操 / 孫権 / 孫策 / 趙岐 / 李術 / 劉勲 / 路粋 / 京兆尹 / 揚州 / 廬江郡 / 刺史 / 尚書郎 / 太守 / 督軍御史中丞 / 茂才 / 三輔決録 |
厳象
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 17:01 UTC 版)
厳 象[1](げん しょう、拼音: 、延熹6年(163年) - 建安5年(200年))は、中国後漢末期の政治家。字は文則。司隷京兆尹の人。
生涯
若い頃から聡明・博学で、胆力と智力を兼備していた。建安年間の初めに路粋と共に抜擢された[2]。荀彧に抜擢された人物の一人とも言われる[3]。
督軍御史中丞に任じられ、袁術討伐のため揚州に赴くが、開戦前に袁術が病死[4]したため、そのまま揚州刺史に任命された。揚州で孫策の勢力が増してくると、曹操は彼らを手懐けるため厳象に命じ、その弟の孫権を茂才に推挙させた[5]。
建安5年(200年)、孫策が任命した廬江太守の李術により、厳象は殺害された。享年38。
詳しい前後関係は不明だが、同年4月4日には孫策も死去し[6]、その勢力は孫権が継いだが、李術は孫権の命令には従わなくなった。孫権は曹操に手紙を送り、「私を推挙してくださった」恩人である厳象を殺害した李術の凶悪さを糾弾し、彼に味方しないよう訴えている[7]。
出典
脚注
- >> 「厳象」を含む用語の索引
- 厳象のページへのリンク