梅思祖とは? わかりやすく解説

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梅思祖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 04:00 UTC 版)

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梅 思祖(ばい しそ、生年不詳 - 1382年)は、初の軍人本貫は帰徳府夏邑県

生涯

はじめ元の義兵元帥となったが、反乱を起こして劉福通に従った。ココ・テムルが思祖の父を殺して塩漬けにした。ほどなく思祖は劉福通を棄てて、張士誠に帰順し、その中書左丞となり、淮安を守った。1366年至正26年)4月、徐達の兵がやってくると、思祖はこれを迎えて降り、4州を朱元璋に献じた。張士誠は思祖の兄弟数人を殺した。思祖は朱元璋に抜擢されて大都督府副使となった。朱元璋に従って張士誠を討ち、昇山の水寨を攻め落とした。湖州を下し、平江を包囲するのに、いずれも功績があった。張士誠を平定すると、思祖は浙江行省右丞に転じた。1368年洪武元年)、徐達に従って北伐し、山東を攻略し、汴梁洛陽を奪取し、陝州を破り、潼関を下した。軍を返して河北をめぐり、衛輝にいたった。元の平章の龍二が城を棄てて彰徳に逃れると、明軍は彰徳に向かった。龍二が彰徳を棄てて脱出すると、彰徳城は明に降り、思祖がここを守備することとなった。元の大都が明軍に攻略されたが、周辺の州県は下っていなかった。思祖は徐達に従って山西・河北を平定した。1369年(洪武2年)、陝西を攻略した。別将として邠州を攻め落とし、元の参政の毛貴ら30人を捕らえた。徐達に従ってココ・テムルを定西で破った。南下して秦州から略陽を破り、沔州に入り、興元を奪取した。1370年(洪武3年)、論功により汝南侯に封じられ、世券を与えられた。1371年(洪武4年)、を攻撃した。1372年(洪武5年)、甘粛に遠征した。南京に帰還すると、山西・陝西・遼東の城池を巡視するよう命じられた。1381年(洪武14年)、四川の水尽源・通塔平・散毛の諸洞の長官が反乱を起こすと、思祖は征南副将として雲南軍を率い、周徳興とともに兵を率いてこれを鎮圧した。1382年(洪武15年)、傅友徳とともに雲南を平定した。貴州都司が置かれると、思祖は都指揮使をつとめた。ほどなく雲南布政司事をつとめ、平章の潘元明とともに雲南を守った。この年のうちに死去した。鍾山明孝陵)の北側に葬られた。

子の梅義は、遼東都指揮使となった。1390年(洪武23年)、思祖の生前に遡って胡惟庸の党とされ、その家を滅ぼされた。思祖の甥の梅殷は駙馬都尉となった。

参考文献

  • 明史』巻131 列伝第19



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