梅戸氏とは? わかりやすく解説

梅戸氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/21 17:47 UTC 版)

梅戸氏
本姓 ?→宇多源氏六角氏庶流・美濃源氏土岐氏庶流
種別 武家
出身地 伊勢国員弁郡梅戸
主な根拠地 伊勢国員弁郡梅戸
著名な人物 梅戸高実
支流、分家 大石氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

梅戸氏(うめどし)は、日本の氏族伊勢国国人北勢四十八家の一つ。梅津氏とも。

概要

梅戸氏は桓武平氏富田進士三郎家資の末裔とされる[1]。また、三重県いなべ市の伝承では、田光隼則の後裔とされる。田光(多比鹿神社)は八風街道に接しており、山科言継尾張国守護代織田信秀の下へ下向する際に梅戸城を経由している[2]。梅戸氏は、幕府奉公衆として、北伊勢にて独立した存在であった[3]。居城は員弁郡の梅戸城、三重郡の田光城、大井田城がある。所領には大井田御厨・小嶋御厨・野辺御厨などの神領があり、そのうち大井田御厨は日野家領家、梅戸氏が代官を務めた。また、員弁郡朝明郡の関所の管理もしており、流通経路を掌握しようとしていた[4]。史料に見える梅戸氏の活動は以下の通りである。

戦国時代には六角高頼の子・左近大夫孫九郎高実(左衛門高貫とも)が入嗣し、大永5年(1525年)9月9日には、高実が杉山三郎右衛門という人物に書状を送っている。高実の弟は萱生城に入場している。また、土岐政房の子も入嗣し梅戸光高を名乗っている。高実は証如と関係が深く、天文7年(1538年)6月19日と同10年(1541年)5月15日付の証如からの書状が残存している。高実には長男・刑部少輔高宗がいたものの、天文23年(1554年)11月10日に死去している(天正4年(1576年)に戦死したとする資料もある。)。高宗の弟あるいは子に高秀(実秀や次郎高資とも)がいたが、永禄11年(1568年)3月、織田信長の北伊勢侵攻の時に攻められ討死し、勢力を減らした(この時戦死せず織田信雄に仕え、天正11年(1583年)5月の豊臣秀吉による美濃国攻略で戦死したとする資料もある)。高実はこの時一向宗との関係から長島に逃れた。長島一向一揆では小田御崎の守将となり一向宗徒数100人を従えていたものの、天正2年(1574年)9月20日の第三次長島侵攻の際に滝川一益丹羽長秀らによって千種氏などとともに戦死したという。大安町光蓮寺は高実が建立した寺であり、そこの過去帳には天正3年(1575年)10月3日の日付と梅戸城主・梅戸左衛門尉高実が長島で生害したとの記述がある。『勢陽雑記』では高実は切腹したとされる。高実の死について、異説として永禄4年(1561年)に近江国高宮で頓死したとする説もあるが、過去帳の内容から否定されている[6]

天正3年(1575年)には高実の子・梅戸高資が死亡し、天正9年(1581年)には、同じく高実の子・宗実が鳥取城での戦いで討死している。宗実の子・孫次右衛門高治は滝川一益の配下となり、本能寺の変後は堀直寄に仕えている。天正13年(1585年)に成立した『信雄分限帳』には朝明郡の人物として梅戸次郎左衛門が見え、長井郷で140貫文を知行している[7][8]

他にも

  • 正確な時期は不明であるが、安土桃山時代の3月23日に、梅戸平右衛門尉有良が松井休也に書状を送っている。
  • 正確な時期は不明であるが、慶長年間(1596年 - 1615年)に、梅戸平右衛門尉可良が芥田五郎右衛門尉に書状を送っている。
  • 慶長19年(1615年)10月17日付の文書には、「片桐且元、及び貞隆の使者」として梅戸忠介の名前が見える。
  • 寛永15年(1638年)1月9日には、梅戸半左衛門が松平勝隆から書状を送られている。
  • 正保2年(1645年)9月9日付の「大宮郷高指出帳」には梅戸八右衛門の名前が見える。
  • 寛政重修諸家譜』によると赤井正勝(赤井幸家の3世孫)の娘婿には梅戸玄怡(養庵)がおり、その娘が町田重忠に嫁いでいる。

系譜

六角高頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梅戸高実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高宗
 
実秀
 
高資
 

脚注

  1. ^ 大安町教育委員会 編『大安町史 第1巻』(大安町、1986年)
  2. ^ 堀端孝治「歴史の道 八風街道の歴史心理学的研究(1)[1]
  3. ^ a b 村井祐樹 2012, p. [要ページ番号].
  4. ^ 東員町教育委員会編『山田城跡発掘調査報告 (東員町埋蔵文化財調査報告書 ; 2)』(三重県考古資料普及会、1984年)
  5. ^ 大安町教育委員会 編『大安町史 第1巻』(大安町、1986年)
  6. ^ 大安町教育委員会 編『大安町史 第1巻』(大安町、1986年)
  7. ^ 東員町教育委員会編『山田城跡発掘調査報告 (東員町埋蔵文化財調査報告書 ; 2)』(三重県考古資料普及会、1984年)
  8. ^ 大安町教育委員会 編『大安町史 第1巻』(大安町、1986年)

参考文献

関連項目





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