曹操配下として
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建安5年(200年)に袁紹と曹操が決戦した官渡の戦いでは、その前哨戦である白馬の戦いにおいて、劉備からの降将である関羽と共に先鋒を務め、顔良の軍を破った。曹操は関羽が去ろうとしているのを察して張遼にそれを問わせ、関羽は正直に本心を吐露した。張遼は関羽を兄弟と呼び、敵ながら親交があった(「関羽伝」)。張遼は戦功により裨将軍に昇進した。 曹操が袁紹を破ると、別働隊を指揮し、魯国を鎮定した。その後、反乱を起こした東海の昌豨を夏侯淵と共に長期間包囲し、昌豨の心をよく推察し、夏侯淵の同意を得て説得の任にあたり降伏させた。昌豨が降伏した時、単身で三公山に上り昌豨の家族に挨拶したが、大将のやることではないと後日曹操から叱責を受けている。 建安7年(202年)9月、黎陽での袁譚・袁尚との戦いに従軍し、行中堅将軍に昇進した。 建安8年(203年)、3月に黎陽から逃走した袁兄弟を4月に鄴城に追い詰めた後、5月に曹操は許都に帰還したが、張遼は楽進と共に陰安を落とし、住民を河南に移した。 建安9年(204年)正月、鄴城包囲の軍に従軍し、8月に鄴城は陥落した。鄴城陥落後は別軍を指揮して趙国・常山郡を制圧するなど功績を挙げ、黒山賊の孫軽らを降伏させた。 建安10年(205年)正月、南皮の袁譚攻略にも参加した。袁譚が敗れると別働隊を指揮して海岸地帯を攻略し、遼東の賊の柳毅を破った。何夔と共に牟平の賊の従銭を破った(「何夔伝」)。 建安11年(206年)、鄴に帰還すると曹操は張遼を自ら出迎え、手を引いて車に乗せて歓待した。曹操は朝廷に楽進・于禁・張遼の栄誉を称えてこれを上奏し(「楽進伝」)、張遼は盪寇将軍に任命された。別軍を指揮して荊州を攻略し、江夏の諸県を平定、臨潁に駐屯し都亭侯に封じられた。 建安12年(207年)、曹操の柳城遠征に従軍し、蹋頓ら烏桓と遭遇すると、張遼は曹操に交戦を勧め、大きく気勢を奮せた。張遼は曹操から指揮の旗を授けられ、張郃と共に先鋒となり(「張郃伝」)、かくして烏桓を大破した(白狼山の戦い)。 荊州の劉表からの攻撃に備え、張遼は長社に派遣された。于禁が潁陰に、楽進が陽翟に派遣されており、三人はいがみ合うことがあったが、参軍の趙儼のおかげで統制された(「趙儼伝」)。軍中に反乱を計画する者があり、一時軍中が動揺したが、張遼と親衛隊数名は威厳を示し軍の動揺を鎮めた上、反乱の首謀者をつき止め誅殺した。 建安13年(208年)、曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍は、章陵太守・都督護軍となった趙儼に統括された(「趙儼伝」)。赤壁の戦い、張遼は呉の水軍に撃沈された。 建安14年(209年)、陳蘭・梅成が氐族の6県と手を組み反乱を起こすと、于禁・臧覇らと共に討伐に赴き、張遼は張郃・牛蓋を率い、陳蘭の攻略を担当した。于禁らが攻略を担当した梅成は早々に降伏したが、その後再び反乱を起こし、陳蘭と合流するため灊山に入った。灊山も陳蘭が篭る天柱山も要害で、険しい道しか存在しない難所であったが、張遼は山の下に陣営を置き、部下の反対を押し切って陳蘭・梅成を攻撃し、2人の首を斬り、その軍勢を降伏させた。于禁が張遼に兵糧を送り、臧覇が援軍の韓当を撃退したので、張遼はこの戦いに専念できたという(「于禁伝」「臧覇伝」)。曹操は諸将の功績を調べ、張遼の功績を特に称え、領地を倍増し、仮節した。 当時、張遼は于禁・楽進・張郃・徐晃と共に名将と謳われており、曹操が征伐に出る度に五人が交代で、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となっていた(「于禁伝」)。
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