曹操軍の騎兵隊長
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武勇に優れ、若いころから弓術・馬術・狩猟を好んだ。父は弟の曹純が14歳のときに亡くなったが、曹仁は曹純とは別居していたという。 豪傑が並び起った後、密かに若者千人余りを集め、淮水・泗水(徐州のこと)で暴れまわった。その後、曹操の配下に入り、別部司馬・行厲鋒校尉となった。 193年、袁術との戦いで多くの敵兵を斬首・捕獲した。さらに、陶謙との戦いでは騎兵を率いて先鋒となり、別軍を指揮して陶謙の部将である呂由を破り、彭城において本軍に合流し、そこでも大いに功績を挙げた。曹操が費・華・即墨・開陽を攻撃すると、陶謙が援軍を派遣してきたが、曹仁は再び騎兵を率いて、これを大いに破った。 194年からの呂布との戦いでは、別軍を指揮して句陽を攻め落とし、呂布の部将の劉何を捕虜にした。 196年、曹操が豫州の黄巾賊を討伐し、献帝を迎えて許昌を都に置いた際、曹仁はしばしば功績を立て、広陽太守に任命された。しかし、曹操は曹仁の勇気と智略を評価していたので、広陽郡に赴任させずに、騎兵隊を指揮させたまま議郎とした。 197年、宛の張繡との戦いで、曹仁は別軍を指揮して近隣の県を攻撃し、男女三千人余りを捕虜にした。曹操が撤退中に張繡の追撃を受けると、敗北して軍は士気を失ったが、曹仁は指揮下の将兵を励まし、大いに奮戦した。曹操は曹仁の働きに深く感嘆し、かくて張繡を破った。 199年春2月、河内の張楊が暗殺され、その旧部下が曹操派と袁紹派に分かれて対立し、袁紹派の眭固が主導権を握り、射犬に駐屯して袁紹の軍を呼び寄せようとした。夏4月、曹仁は曹操の命令で、史渙らと共に、袁紹と合流しようとした眭固を犬城において破り、斬った。 200年、曹操と袁紹が決戦したときは、袁紹の部将の劉備が㶏強を攻撃し、多くの諸県を袁紹側に寝返らせていたため、曹操は不安になった。曹仁は曹操に対し、「劉備が指揮しているのは袁紹の兵ですから、その運用に慣れておらず、戦えば勝てます」と主張し、曹操はこれを良しとした。曹仁は騎兵を指揮して劉備を破り、離反した諸県を全て奪回して帰還した。 袁紹は部将の韓猛を使って西方の交通の遮断をしようとしたが、曹仁は鶏洛山で韓猛を大破した。このため袁紹はそれを諦めた。また、史渙らと共に袁紹の兵糧車を襲撃し、これを焼き払った。 205年、高幹の立て籠もる壷関を包囲した際、曹操は「敵は一人残らず穴埋めにせよ」と布令し、連月しても下すことができなかった。曹仁は「城を囲む時には必ず活門を示し、生きる道を開けておくものです。必ず殺すことを告げて固い城を攻めるのは、良策ではありません」と諫めた。曹操がこの意見に従うと、敵は降伏した。曹仁は前後の功績により都亭侯に封じられた。
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