韓猛
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袁紹の将。「韓荀」「韓〓」「韓若」などとも書かれ、どれが正しいのか分からない。『資治通鑑』では「韓猛」としている《荀攸伝集解》。また韓莒子と同一視する人もある《荀攸伝集解》。 建安五年(二〇〇)、袁紹は官渡において曹操軍と対峙していた。韓猛は別働隊として曹操軍の西方の道路を占拠したが、雞洛山において曹仁と戦い、大敗した《曹仁伝》。 のちに韓猛は輜重車を守って官渡に届けることになった。荀攸が「袁紹軍の輸送車がまもなく到着いたします。その将韓猛は勇敢ですが敵を侮っておりますから必ず破ることができます」と告げたので、曹操は徐晃・史渙を派遣して迎撃させた。韓猛は彼らと戦ったが敗走し、輜重は焼き払われた《荀攸伝》。 |
韓猛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 06:12 UTC 版)
韓 猛(かん もう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。字は不明[1]。
『三国志』の注釈者裴松之によると、様々な名が伝わっており、他に韓荀(荀の字の下に大が付く場合もある)・韓若という別称があるが、韓猛も含めてどれが正しい名かは分からないという。本記事では便宜的に、『三国志演義』でも採用されており、一般に最も知られていると思われる「韓猛」を採る。
正史の事跡
姓名 | 韓猛(または韓荀、韓若) |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁紹 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
袁紹配下。曹操軍の荀攸の評によれば、韓猛は「向こう意気が強くて敵を軽んじる男」ということであった。
建安5年(200年)の官渡の戦いで、曹操軍の西方の交通を遮断するよう袁紹から命じられたが、雞洛山で曹仁に撃破された。さらに、袁紹軍の兵糧の運搬を警護する役目も担ったが、荀攸の計略により徐晃・史渙(『三国志』諸夏侯曹伝によると、曹仁も)に妨害され、輸送車を焼き払われた。その後は史書に記述が見当たらない。
物語中の韓猛
小説『三国志演義』では、韓猛の名が採用されている。曹操軍は韓猛の兵糧輸送警護について、史渙が捕虜から情報を得て知ることになっている。史実同様に徐晃・史渙の攻撃を受けて輸送車を焼き払われる。さらに、怒った袁紹から処刑されそうになったものの、諸将の取り成しで命を助けられたが、雑兵に降格させられてしまう。
脚注
参考文献
- >> 「韓猛」を含む用語の索引
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