曹操配下としての実績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 06:20 UTC 版)
曹操の下では、沛郡南部都尉・梁国相・諫義大夫兼丞相軍祭酒・郎中令兼行御史大夫事を歴任し、主に内政面で献策を行なった。忠直の士として名声が高く、清貧にして慎重な人柄であり、教化訓戒を第一に心がける政治を行なって、人民から慕われた。また、ある時に劉備が死んだとの噂が伝えられたが、他の諸官が慶賀する中で、一人それに与しなかった。 袁渙が亡くなると、曹操は涙を流して悲しんだ。没年は不詳であるが、曹操が魏王となった建安21年(216年)から曹操が没した建安25年(220年)までの、いずれかの年と考えられる。 なお、小説『三国志演義』には登場しない。
※この「曹操配下としての実績」の解説は、「袁渙」の解説の一部です。
「曹操配下としての実績」を含む「袁渙」の記事については、「袁渙」の概要を参照ください。
- 曹操配下としての実績のページへのリンク