路招
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建安四年(一九九)、袁術が徐州を通過して袁紹を頼ろうとしたので、曹操は朱霊と路招を劉備に付けて迎え撃たせたが、到着しないうちに袁術は病死した《先主伝》。 同十三年、曹操が荊州を征伐するにあたっては、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・馮楷とともに都督護軍趙儼に属していた《趙儼伝》。 同十七年、朱霊とともに行護軍将軍夏侯淵に属し、長安に駐屯している《夏侯淵伝》。 史書では名前に触れられるだけだが、朱霊と行動をともにすることが多く、于禁・張遼らとほぼ同格の高位の将軍であったと思われる。 【参照】于禁 / 袁紹 / 袁術 / 夏侯淵 / 朱霊 / 曹操 / 張郃 / 張遼 / 趙儼 / 馮楷 / 李典 / 劉備 / 荊州 / 徐州 / 長安県 / 護軍将軍 / 都督護軍 / 三国志演義 / 行 |
路招
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 05:05 UTC 版)
路招 | |
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後漢 | |
出生 | 生年不詳 兗州陳留郡陳留県 |
拼音 | Lù Zhāo |
主君 | 曹操 |
路 招(ろ しょう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。兗州陳留郡陳留県(現在の河南省開封市祥符区)の人。曹操配下にあって、具体的な戦功の記述は乏しいが、同僚の朱霊と行動を共にする事が多かった歴戦の将軍である。
略歴
建安4年(199年)、曹操は劉備に袁術を討伐させようとし、朱霊と路招をその指揮下に加えた。しかし、討伐着手前に袁術は病死した。その後、朱霊と路招は劉備を徐州に残して、曹操の下に帰還した。
建安13年(208年)、曹操が荊州征伐に向かう際、趙儼は章陵太守を兼任し、さらに都督護軍となった。路招はこの時、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・馮楷の6将軍と共に趙儼の指揮下に入っている。
建安17年(212年)、やはり朱霊と共に、行護軍将軍に任命された夏侯淵の指揮下に入り、長安に駐屯した。この時、夏侯淵の軍は南山の劉雄鳴を撃破してその軍を降伏させ、さらに馬超・韓遂の旧配下だった梁興を討ち取っている。
以後、名は史書に見当たらない。
演義
小説『三国志演義』では「
吉川英治版・横山光輝版
吉川英治の小説『三国志』、ならびにそれを原作とした横山光輝による漫画『三国志』では「
参考文献
路招(ろ しょう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
夏侯淵配下として漢中攻防戦で登場。特徴的な笑い方をする。劉備追撃時に夏侯淵の援護むなしく劉備の救助にきた馬超に討たれる。
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