昌豨とは? わかりやすく解説

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昌豨Chang Xi

ショウキ
シヤウキ

(?~206

「昌狶」「昌霸」ともいう《先主伝》。

はじめ臧霸孫観呉敦尹礼とともに軍勢集めて呂布味方していたが、建安三年一九八)に呂布敗北する曹操降服した。同五年に劉備下邳曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備呼応したが、まもなく鎮圧された《武帝紀・先主伝》。

六年、曹操張遼魯国駐屯させていたが、張遼夏侯淵とともに東海進んで昌豨を包囲した。昌豨は数ヶ月のあいだ持ちこたえ、夏侯淵らは軍糧が底をついたため帰還しようとした張遼は「ここ数日、昌豨はいつも張遼を見つめ、矢を射ることも少なくなってきました。きっと彼の計算にまだためらいがあって、そのせいで全力戦わないのです。彼と語り合って降服呼びかけたいと存じます」と夏侯淵告げ、昌豨に使者をやった《張遼伝》。

そこで昌豨は三公山から下りてきて、張遼語り合った張遼が「太祖(?)は神の武勇をおもちで、徳によって四方手懐けおられる真っ先馳せ参じた者から大きなご褒美がもらえるのだぞ」と言うと、昌豨は降服承諾した張遼単身三公山に登って彼の邸に入り妻子挨拶した。昌豨が大喜びして曹操のもとに出頭すると、曹操は彼をもとの場所に帰ることを許した張遼伝》。

十一年、昌豨はまたも叛逆した。于禁討伐したが攻略することができず夏侯淵来援した。夏侯淵于禁臧霸らは十以上の屯営攻め下し、昌豨は于禁のもとに出頭した夏侯淵臧霸伝》。諸将はみな彼を曹操のもとに送致すべきだと言ったが、于禁は「包囲されたのち降服した者は赦さないのが公(曹操)の慣例だ。法律を奉って命令を行うのはお上仕える者の節義である。昌豨とは旧友であるが、節義失ってよいものであろうか」。于禁は自ら昌豨を引見して別れ告げ、涙を流しながら彼を斬った。曹操はこれを聞いて「吾(わたし)のもとに出頭せず于禁ところに行ったのは、運命ではないだろうか」と歎息した《于禁伝》。

参照尹礼 / 于禁 / 夏侯淵 / 呉敦 / 曹操 / 臧霸 / 孫観 / 張遼 / 劉備 / 呂布 / 下邳県 / 三公山 / 東海郡 / 魯国


昌豨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 01:05 UTC 版)

昌豨
後漢
出生 生年不詳
徐州東海郡
死去 建安11年(206年
拼音 Chāng Xī
別名 昌覇
主君 独立勢力→曹操→独立勢力→曹操→独立勢力
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昌 豨(しょう き、? - 206年)は、中国後漢時代末期の武将。徐州東海郡の人。別名に「昌覇[1][2]」もある。徐州東海郡の独立勢力指導者。

生涯

泰山方面で孫観呉敦尹礼らと共に、臧覇を首領として活動していた。臧覇らは当初呂布と敵対したが、後に同盟者となった。

建安3年(198年)12月、呂布が曹操に滅ぼされると、臧覇らと共にいったん曹操に降伏し、青州・徐州の一部を委ねられる厚遇を受けた。

時期は不明だが、東海の襄賁で炅母が反逆した時、昌豨に通じている。この反乱は呂虔に鎮圧された。

建安4年 (199年) 、劉備が下邳で曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備に呼応した[1]

建安5年(200年)、劉備が曹操に敗北して袁紹の下へ逃れた後、これに続けて昌豨を撃破した[3]

官渡の戦いの後、昌豨は再び曹操に反逆し、張遼夏侯淵は数か月に渡ってこれを攻撃したが撃破出来なかった。それでも張遼は巧みに昌豨を説得し、降伏させることに成功する。

建安11年(206年)、昌豨はまたしても曹操に反逆し、今度は于禁・臧覇の討伐を受ける。于禁は当初苦戦したが、夏侯淵の支援を受けて何とか昌豨を降伏させた。于禁は昌豨と旧友だったが、「法によれば、包囲されて後に降伏した者は赦されない」として、涙ながらに昌豨を処刑した。曹操はこれを聞いて、于禁をいっそう重んじた。于禁は後に樊城の戦いにて関羽に包囲され降伏する羽目に陥り、何の因果か晩節を汚す羽目になった。『三国志』注釈者の裴松之は、昌豨は囚人として曹操の下に護送されるべきだったとし、万一の大赦を期待すべきだったと于禁の行為を非難している。

逸話

諸葛亮建興5年(226年)11月の上奏文によれば、曹操が5度攻撃して下すことが出来なかったとされる。 于禁とは友人同士であり処刑の際には自ら昌豨を引見して別れを告げ、涙を流しながら彼を斬った。 曹操はこれを聞いて「吾のもとに出頭せず于禁のところに行ったのは、運命だったのだろうか」と嘆息した。

物語中の昌豨

小説『三国志演義』では、昌豨は、孫観・呉敦・尹礼と共に泰山の山賊として登場する。呂布軍と結び、蕭関で曹操軍を迎え撃ったが、撃破される。呂布滅亡後、孫観らが曹操に降伏したにもかかわらず、昌豨は降伏せずに独立勢力となる。その後は『演義』から姿を消す。

脚注

  1. ^ a b 蜀志先主伝
  2. ^ 胡三省通鑑注:昌覇,昌豨也。
  3. ^ 魏志武帝紀

参考文献



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