偽作か真作か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:22 UTC 版)
古くから後出師表は真偽不明の文書として有名であった。清の考証学者で歴代正史の研究を行った何焯の『義門読書記』では諸葛亮の真作とするが、考証学者でも銭大昭・林国賛は偽作説を唱えており、現在でもはっきりした結論は出ていない。以下に偽作説の学者の主張を述べる。 劉繇や王朗を批判したあと、曹休の話が出てくるが、30年近く時期が違う話を同一に扱うのは不自然である。 曹操が家臣の李服に謀反を起こされたという話が出てくるが、李服などという人物は『三国志』魏書に登場しない。 曹操が昌豨に五回戦ったという話が出てくるが、『三国志』蜀書では戦った回数は一回で矛盾している。 趙雲が死んだことになっているが、趙雲の没年は229年であり、後出師表を書いたとされる時には趙雲はまだ生きていたはずである。 陳寿の三国志本文や、諸葛亮集に収録されておらず、張儼『黙記』に登場するのは、疑問である。なぜ呉に残っているのに蜀に残っていないのか。陳寿は諸葛亮を非常に尊敬しており、前出師表だけ収録して後出師表が漏れるということはあり得ないことだ。 これに対し、真作説を唱える学者は、 前出師の表でも似たような話はあり、王朗の話のあとに曹休の話が出てきても不自然ではない。 李服は董承と一緒に反乱を起こして処刑された王服(王子服)のことである。 『三国志』魏書の複数に渡って昌豨が度々曹操に反乱を起こしたことが記録されており矛盾はしていない。 趙雲は後出師表が出た時点で既に死去していたのであろう。 後出師表は呉にいた諸葛亮の親族、諸葛喬や諸葛恪が伝承したもので、蜀に残っていなくとも不自然ではない。陳寿が三国志に収録しなかったのは、魏王朝を「賊」呼ばわりするなど表現が過激だからであろう。 と主張している。
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