偽作説
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多賀城碑が偽作ではないかという嫌疑は江戸時代末期からかけられていたが、明治時代に真偽論争が活発になった。現在では真作説が有力である。 偽作説の根拠としては、奈良時代の那須国造碑などと比較すると信を置きがたいと指摘される。すなわち、書体は古風を模しているとはいえ生気が無く、集字体であり、文字の彫り方は近世以降にみられる「箱彫」であるとされた。 碑文の内容についても以下の問題点が指摘された。 朝獦が碑が建てられた天平宝字6年(762年)12月1日に参議に任ぜられているのもおかしく、位階も碑には従四位上とあるが、『続日本紀』によれば従四位下であるという。また、朝獦が東山道節度使に任ぜられたことは『続日本紀』に見当たらない。 碑には靺鞨国とあるが、靺鞨国はすでに国号をあらため渤海と号し、当時から2代前の聖武天皇の時代から日本との交通は頻繁であるのに靺鞨国とあるのはおかしい。 常陸国界をへだたる里程もまた正史と符合しない点がある。常陸国から陸奥国に行くには山道と海道とがあり、山道は412里であり、海道は292里である。『続日本後紀』によれば和銅年間から弘仁年間までは官道は海道であり、以後、山道を官道としたという。とすれば碑の天平宝字6年(762年)は当然、海道の里数を挙げなければならないところである。 こうして多賀城碑は、仙台藩が佐久間洞巖に命じて作らせた偽作であるとされた。
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偽作説
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「ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1555年)」の記事における「偽作説」の解説
フランス史上の占星術関連テクストの分析で博士号を取得したジャック・アルブロンは、ノストラダムスの予言集で本物といえるのは序文(「セザールへの手紙」)の大部分だけで、四行詩集は全てノストラダムスの死後に、カトリック同盟に関連した政治的意図で捏造された偽書に過ぎないという大胆な仮説を提示した。 彼の仮説では、マセ・ボノムによる1555年版は1570年頃に捏造されたもので、ノストラダムスもボノムも一切関与していないものということになる。 彼の仮説は大きな論争を巻き起こしたが、実証的な立場からも様々な批判が寄せられており、広く支持されるには至っていない。
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偽作説
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一方で碑文を偽作とする説もあった。これは、『仙台封内名蹟志』(佐藤信要著、寛保元年(1741年)跋)にも享保年間成立の『奥羽観蹟聞老志』にも記述が無い事から、一字一石塔の背面に後年の好事家がたわむれに難字を刻して世間を驚かそうとしたのであり、しかもその偽作者は石巻市の禅昌寺にある霊蛇田道公墳の碑を偽作したという好事家である藤塚知明であろうというものである[誰?]。 しかし、知明の出生以前に儒学者の細井広沢(万治元年(1658年) - 享保20年(1736年))がこの碑について解読を試みているところから[要検証 – ノート]、少なくとも享保年間にはすでに碑文は存在していた事になり、知明が世間の耳目を引く為に碑文を偽刻したならばその文を表にする筈であるのに、問題の碑文を表面にするようになるのは昭和16年に現存地に移転されてからであって、それまでは一字一石の塔の背面として知られていたので、少なくとも知明偽作説は否定されている[要検証 – ノート]。 また、田中義成によれば天嶺の刻む一字一石の碑文にある「享保八年」の銘には、「慶安」(1648年 - 1652年)と刻まれていたものを磨り消した形跡があり、碑面の様子からも碑文を有する慶安時の碑の背面に弘安の碑文を刻んだ疑いがあるという。
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偽作説
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「トッカータとフーガニ短調」の記事における「偽作説」の解説
この作品には偽作説がある。一般にはバッハの最も初期の作品と言われているが、他のフーガとは異なった趣を持ち、また曲の規模のわりに内容が平易であるといったことも特異である。 偽作説の根拠は バッハの自筆譜が現存せず、最も古い筆写譜が18世紀後半のものであること。 フーガの書法が異例であること。特に主題が単独で提示されるオルガンフーガ、および短調の変終止で終わるオルガン・フーガはバッハの全生涯を通じて他に例がないこと。 いささか表面的な減7の和音の効果や技巧の誇示が認められること。 などが挙げられる。ロルフ・ディートリッヒ・クラウス Rolf Dietrich Claus は、この曲の作者をテューリンゲン地方のオルガニスト、ペーター・ケルナー(Johann Peter Kellner, 1705年 - 1772年)としている。なお、フーガ主題の前半はブクステフーデのオルガン作品《前奏曲とフーガ ニ短調BuxWV140》に見られる。
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偽作説
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「ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1568年)」の記事における「偽作説」の解説
既に見たように、第二部がノストラダムスの死後の偽作とする説が存在する。 ジャック・アルブロンは、それにとどまらず『予言集』初版、1557年版などと同様に、1568年版も、カトリック同盟に関連した政治的意図で捏造された偽物に過ぎないと主張している。彼は1568年版を忠実に写したとされる1590年カオール版こそが、現在伝わる形の第二序文が最初に現れた版だと主張している。 彼の偽作説には、当時のタイポグラフィなどの分析などを基にした反論が複数出されている。
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偽作説
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「トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565」の記事における「偽作説」の解説
この作品には偽作説がある。一般にはバッハの最も初期の作品と言われているが、他のフーガとは異なった趣を持ち、また曲の規模のわりに内容が平易であるといったことも特異である。 偽作説の根拠は バッハの自筆譜が現存せず、最も古い筆写譜が18世紀後半のものであること。 フーガの書法が異例であること。特に主題が単独で提示されるオルガンフーガ、および短調の変終止で終わるオルガンフーガはバッハの全生涯を通じて他に例がないこと。 いささか表面的な減7の和音の効果や技巧の誇示が認められること。 などが挙げられる。ロルフ・ディートリッヒ・クラウス Rolf Dietrich Claus は、この曲の作者をテューリンゲン地方のオルガニスト、ペーター・ケルナー(Johann Peter Kellner, 1705年 - 1772年)としている。なお、フーガ主題の前半はブクステフーデのオルガン作品『前奏曲とフーガ ニ短調 BuxWV 140』に見られる。
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