偽使通交の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 10:05 UTC 版)
朝鮮王朝建国当初、上は室町幕府から下は倭寇的地侍・商人といった重層的な勢力が朝鮮へ通交しており、これらの通交者の根拠地は京都から薩摩まで西国全域に分布していた。16世紀に入ってもこうした状況は表面的には変わらず、1570・80年代の文引の発給状況を記録した『朝鮮送使国並書契覚』には朝鮮通交者の名義人として日本国王使や西国諸大名・国人が名を連ねている。しかし16世紀におけるこうした通交者のほぼ全ては宗氏による偽使であり、実際には「貿易権の対馬集中」が発生していた。15世紀半ばより宗氏が偽使による通交権の集積を推し進めた結果、初期の広域的・重層的な通交者は日朝貿易から締め出され、近代まで続く宗氏による対朝鮮貿易の独占をもたらしたのである。 14世紀末から15世紀半ばにかけては朝鮮王朝が通交統制制度を整備していく過渡期にあたる。その中で宗氏は通交統制に協力しながら自身の統制力強化を図っていた。一方、規制の対象とされた博多商人や対馬の中小勢力等は、宗氏や室町幕府等の名を騙った偽使の派遣を通じて統制を潜り抜けようと試みていた。嘉吉条約により宗氏の通交に制限が課せられると宗氏と朝鮮王朝の蜜月関係は終わりを告げる。宗氏は深処倭通交権を入手し、偽王城大臣使を派遣し、博多商人と提携して偽使通交体制を築いていった。こうした結果、宗氏掌握通交権は嘉吉条約締結時には年間50隻であったのに対し、1480年代には年間100隻を大きく超えていたと見られている。それに対し朝鮮王朝と室町幕府は牙符制を敷いて日本国王使及び王城大臣使から偽使の排除を行った。また1510年に起きた三浦の乱により宗氏は通交権の大半を喪失する。これに対し、宗氏は偽日本国王使を派遣することで貿易を行うのみならず停止された深処倭名義通交権の回復も行った。三浦の乱により、一時は年間25隻にまで激減した宗氏掌握通交権は、1580年代には年間120隻近くにまで達し、また日朝貿易は宗氏の独占するものとなっていた。しかし1592年から始まる文禄・慶長の役により、日朝関係は断絶し貿易も途絶える。宗氏は日朝両国の間に立ち、偽日本国王使の派遣や国書改竄を繰り返しながら国交正常化に奔走する。宗氏の努力が実り、1609年の己酉約条によって貿易は再開されるが深処倭名義通交権は全て廃止されることとなる。その後も偽日本国王使の通交は続いたが、柳川一件により偽使派遣や国書改竄が江戸幕府の知るところとなり、以酊庵輪番制により偽使通交は終止符を打たれる。 表2 関連年表1392年 朝鮮王朝建国 1400〜10年 入港場の制限 1419年 応永の外寇 深処倭通交の書契による統制 1420年 対馬通交の書契による統制 1425年 渋川氏没落 1426〜38年 文引制の確立 1443年 嘉吉条約 第3回朝鮮通信使 1444年 宗氏、北九州における所領の喪失 1453年 深処倭通交の増大 1454年 畠山氏、家督騒動勃発 1456年 深処倭の歳遣船化 1459年 朝鮮通信使海難事故 1467年 応仁の乱勃発 1469〜71年 宗貞国、博多進駐 1477年 応仁・文明の乱、終結 1479年 朝鮮通信使 1482年 牙符制発効 1493年 明応の政変 1510年 三浦の乱 1592〜93年 文禄の役 1597〜98年 慶長の役 1607年 第1回朝鮮通信使 1609年 己酉約条 1633〜35年 柳川一件
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