宗貞国
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宗貞国夫妻像(養玉院蔵)
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時代 | 室町時代中期 - 戦国時代(室町時代後期) |
生誕 | 応仁30年(1423年) |
死没 | 明応3年7月9日(1494年8月9日) |
別名 | 通称:彦七 |
官位 | 従五位下、刑部少輔 |
幕府 | 室町幕府 |
父母 | 父:宗盛国 養父:宗成職 |
子 | 材盛 |
宗 貞国(そう さだくに、1423年(応仁30年)[1] - 1494年8月9日(明応3年7月9日)[注釈 1])は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将。対馬の守護大名で、宗氏の第11代当主。第9代当主宗貞盛の弟・盛国(もりくに)の次男。貞盛の子で第10代当主となっていた宗成職(しげもと)の養嗣子。官位は刑部少輔。
通称は彦七[1]。1468年、成職の没後に家督を継いだ。この頃、宗氏では一族が分裂していたが、貞国はこれら一族の大半を服従させて対馬の支配権を確立した。また、李氏朝鮮との通交も盛んにした。そして主筋の少弐教頼・少弐政資らを助けて大内氏と戦い、北九州にまでその勢威を広げたが、やがて大内政弘の反攻にあって、少弐氏は敗れ、貞国の筑前国における所領も奪われた。1492年、隠居して家督を宗材盛(きもり、「材」は足利義材からの偏諱)に譲り、1494年に死去した。享年65。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典内言及, デジタル版. “宗貞国(そう さだくに)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年7月20日閲覧。
関連項目
固有名詞の分類
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