島分寺・島分尼寺とは? わかりやすく解説

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島分寺・島分尼寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 08:43 UTC 版)

壱岐国」の記事における「島分寺・島分尼寺」の解説

壱岐国分寺跡 長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触

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島分寺・島分尼寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 01:00 UTC 版)

対馬国」の記事における「島分寺・島分尼寺」の解説

聖武天皇741年天平13年)に発布した国分寺建立の詔」ののち大日如来本尊として対馬島分寺(とうぶんじ)が下県郡国府付近に建てられ記録があり、のちの金石城厳原城)の位置がこれに比定される。金石城跡発掘調査によって島分寺伽藍配置などが解明されつつある。755年天平宝字7年)、国・島講師正確に国・島師)が廃され復され島分寺講師置かれたのは855年斉衡2年であった。その財源は、九州本土諸国依存するところが大きかったという。857年天安元年)の国司立野正岑の乱では島分寺焼失し、翌天安2年国府嶽山麓に本尊大日如来移して大日堂建立された。これはのちに大日寺称された。現在の臨済宗西山寺である。史料では、貞観年間859年 - 877年)には、対馬島分寺島内における財源補強努力確認されるいっぽう1468年応仁2年)、対馬府中に居をかまえた宗貞国が弟の甫庵宗睦に国分寺復興命じ古代島分寺跡の山際再建されたと推定されている。これは、江戸時代入って1665年寛文5年)に宗義真金石城拡張した際に日吉移された。さらに1863年文久3年になって以酊庵振り替わって厳原町天道茂現在地移されたのが釈迦如来本尊とする現存国分寺である。現存寺は、曹洞宗天徳山国分寺称しかつては宗家菩提寺だったこともあり、江戸時代中・後期には朝鮮通信使来聘に際して、その客館として使用された。 なお、島分尼寺国分尼寺)については詳細不明である。

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