島分寺・島分尼寺
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島分寺・島分尼寺
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聖武天皇が741年(天平13年)に発布した「国分寺建立の詔」ののち大日如来を本尊として対馬島分寺(とうぶんじ)が下県郡の国府付近に建てられた記録があり、のちの金石城(厳原城)の位置がこれに比定される。金石城跡の発掘調査によって島分寺の伽藍配置などが解明されつつある。755年(天平宝字7年)、国・島講師(正確には国・島師)が廃され、復されて島分寺に講師が置かれたのは855年(斉衡2年)であった。その財源は、九州本土の諸国に依存するところが大きかったという。857年(天安元年)の国司立野正岑の乱では島分寺を焼失し、翌天安2年、国府嶽山麓に本尊大日如来を移して大日堂が建立された。これはのちに大日寺と称された。現在の臨済宗西山寺である。史料では、貞観年間(859年 - 877年)には、対馬島分寺の島内における財源補強の努力が確認される。 いっぽう、1468年(応仁2年)、対馬府中に居をかまえた宗貞国が弟の甫庵宗睦に国分寺復興を命じ、古代島分寺跡の山際に再建されたと推定されている。これは、江戸時代に入って1665年(寛文5年)に宗義真が金石城を拡張した際に日吉へ移された。さらに1863年(文久3年)になって、以酊庵と振り替わって厳原町天道茂の現在地に移されたのが釈迦如来を本尊とする現存国分寺である。現存寺は、曹洞宗天徳山国分寺と称し、かつては宗家の菩提寺だったこともあり、江戸時代中・後期には朝鮮通信使来聘に際して、その客館として使用された。 なお、島分尼寺(国分尼寺)については詳細不明である。
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