騒動勃発とは? わかりやすく解説

騒動勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 03:33 UTC 版)

生駒騒動」の記事における「騒動勃発」の解説

寛永12年1635年)、生駒家幕府より江戸城修築の手伝い普請命じられ江戸材木商の木屋から借金をして行った前野石崎はこの返済のために高松城南方石清尾山松林木屋伐採させた。この山は、親正が高松城築いたときに要害として伐採禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨した。彼らは家老生駒帯刀説き立て前野石崎非違親類訴えることになった寛永14年1637年7月帯刀江戸へ出て藤堂家藩邸行き訴状差し出した訴状受け取った高次容易ならぬことと思い、利勝と生駒家縁戚脇坂安元相談し帯刀尋問した高次穏便に済ますよう帯刀説諭して国許へ帰らせ、次いで前野石崎藩邸召して尋問の上厳しく訓戒し以後は慎むよう誓わせた。 しかし家中不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった寛永15年1638年10月帯刀は再び高次前野石崎厳しく裁くよう訴え出た国許にあった高次帯刀津藩呼び家中不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した寛永16年1639年4月参勤交代江戸出た高次は、安元および利勝(前年幕府大老就任)と相談このままでは訴訟絶え遂に生駒家お取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として、双方主だった者5人に切腹申し付けることになった5月藩主高俊が参勤交代江戸来て前野石崎も従っていた。高次前野石崎および国許から帯刀藤堂家藩邸呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した高次帯刀藤堂家領地伊賀へ行かせた。 8月高次使者に兵をつけて讃岐遣わし江戸で決定家中の者たちに伝えた。これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き騒ぎ始めた12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に、帯刀忠義の者の命を助けるよう訴えたそれまで事情を全く知らされていなかった高俊は驚き親類方が相談もなくことを決めたことに怒った寛永17年1640年1月、高俊は藤堂家藩邸に赴き、高次抗議した高次説諭するが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよと匙を投げ生駒家家政から手を引くことにした。藤堂家の兵も讃岐から立ち去った帯刀帰国し帯刀派は歓喜したが、江戸で切腹するつもりで控えていた前野石崎衝撃を受け、切腹をやめ、事の始末幕府訴えることにした。4月前野石崎派は老中稲葉正勝訴状提出した同時に国許使者送り同志の者たちに家族引き連れて立ち退くよう指図した讃岐では、前野石崎派の侍8人、家族家来含めると2300人が鉄砲刀槍武装して国許立退く大騒ぎになった江戸で一味の者たちが藩邸立退いた。

※この「騒動勃発」の解説は、「生駒騒動」の解説の一部です。
「騒動勃発」を含む「生駒騒動」の記事については、「生駒騒動」の概要を参照ください。

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