騒動当事者への判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
石徹白騒動の裁判で大きな争点とされた、石徹白豊前が世襲神主であるのかどうかと、石徹白が吉田家支配であるのか白川家支配であるのかについては、幕府評定所は豊前側の言い分を認め、石徹白豊前は世襲の神主であり、また石徹白は吉田家支配であるとの判断を示した。 しかし石徹白豊前の石徹白での数々の専横については、幕府評定所は、豊前が郡上藩役人らへ贈賄工作を行った上で、大勢の社人を追放したあげくに追放社人の資産を横領し、白山中居神社の神人である石徹白の住民に新たに三分の一課税を行うなどの行動について、豊前自らが神地である石徹白を押領しようとしたものであると断じ、豊前に死罪を言い渡した。評定所での判決言い渡し後、獄門と死罪を言い渡された者たちはそれぞれ「獄門」、「打首」と書かれた木札を腰に付けられた上で刑場へ引かれ、処刑されていった。石徹白豊前も死罪を言い渡された中の一人として判決言い渡し直後に処刑された。 石徹白豊前以外の騒動当事者は、杉本左近が三十日押込、宝暦7年(1757年)11月に寺社奉行に対して再度の訴えを起こした上村十郎兵衛、上村五郎右衛門、植村七右衛門、宝暦8年(1758年)に目安箱に箱訴を行った久保田九郎助、森清右衛門らについては急度叱りという判決であった。これは石徹白が白川家支配であると主張したことと石徹白豊前が世襲神主ではないと主張した点が、裁判において事実と異なる主張を展開したとして受けた罪状であった。また杉本左近らは吉田家に対してその石徹白支配を認める詫び状の提出を命じられたが、その上で石徹白に住むことは問題なしとされた。 その他、石徹白豊前の専横に手を貸した豊前派の社人は、豊前から庄屋に任じられた由助が、追放社人の財産を勝手に処分を進めたことについて、主人の豊前の指示であったとはいえ不届きとして軽追放が言い渡されたが、その他の人々は無罪とされた。 また、騒動のきっかけとなった威徳寺の看坊であった恵俊は、事実と異なる話をもって威徳寺の掛所指定を進めようとしたことが不届きであるとして、中追放が言い渡された。
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