騒動前の石徹白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
越前国大野郡石徹白は白山南麓の標高700メートルを越える九頭竜川上流部の石徹白川流域に広がり、上在所、中在所、下在所、西在所、小谷堂(こたんどう)、三面(さっつら)の六在所に分けられていた。上在所の北端には景行天皇の時代に創建されたと伝えられる白山中居神社があり、養老年間に白山を開いた泰澄が社殿を修復し社域を拡張したとも伝えられている。 平安時代から鎌倉時代にかけ、白山信仰の隆盛に伴い、美濃側からの白山登山ルート上に位置する白山中居神社は、長瀧寺とともに発展を見せていた。そして石徹白は白山中居神社の社領のような形となり、住民は全て神社に属し社人と呼ばれていた。社人はオトナとも呼ばれた12名の頭社人、平社人、末社人の三階級に分けられ、頭社人が神社や石徹白の重要事項を合議で決定する体制が形作られていった。頭社人は基本的に世襲制であったが、筆頭の神主のみは一年交代制であったと伝えられている。 しかし15世紀初頭には白山中居神社は衰退し、12名で構成されていた頭社人は3名にまで減少してしまった。そこで正長元年(1428年)、郡上郡粥川村にある星ノ宮の神主の子である児河合を石徹白に迎えて神主として、以後児河合の子孫が神主を世襲するようになったと伝えられている。 16世紀に入り、石徹白は朝倉氏の支配下に入った。天文年間、朝倉氏は石徹白の神主を一名に固定するよう指示を出したとされ、これによって神主の世襲化が固まったと考えられている。朝倉氏の滅亡後、石徹白は金森長近や丹羽長秀らの支配を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以後は北ノ庄藩領、そして貞享3年(1686年)からは天領となり勝山陣屋の代官支配となった。貞享4年(1687年)には石徹白は白山中居神社の社領として田畑の年貢は免除とし、住民は社人身分として名字帯刀が許されるという特権が認められた。元禄5年(1692年)、石徹白は天領から郡上藩の支配とされたが、白山中居神社の社領としての年貢の免除、社人として名字帯刀の特権は引き続き認められた。つまり石徹白の住民は白山中居神社に対して年貢的な貢納を行っていたが郡上藩に対して年貢や課役は全く負担せず、郡上藩も石徹白の住民たちには行政面での支配を行使していたのみであった。
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