騒動までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/10 14:38 UTC 版)
当時の長瀞村は、田畑を質入れした農民が多く、農村の分解が進行していた。債務者300余人に債権者46人、証文が320通で、債務者の借金総額は3980両、利子は年に2割から2割5分という状況だった。農地の質流れを禁止し、借金を返済すればすでに質流れとなった土地を農民に返却しなければならない質流地禁止令が出されたのは、そのような時期であった。 幕府直轄地である長瀞村にもこの法令は通達されなければならなかったのであるが、名主が村役人と相談して農民たちにはこれを伝えないことにした。質取主(債権者)の被る損害や、混乱、金銭の融通が困難になることなどを考えてのことであったが、同村の農民で農地を質入れしていた新兵衛と喜右衛門(きえもん)の2人が、下郷の飯田村でこの法令を知り、写しをとって村に帰り、他の村人たちと協議をした。 享保8年(1723年)1月に行われた協議では、田畑を質にとられて名子になったばかりの九助(きゅうすけ)や弥次郎といった者たちが中心人物となり、質入れした農地や質流れになった田地を取り返すため、村中の百姓の連判をとって名主につきつけることとなった。参加しない者は田地を奪い取って皆の酒代にすると脅して作成した連判状には380人が署名した。
※この「騒動までの経緯」の解説は、「長瀞騒動」の解説の一部です。
「騒動までの経緯」を含む「長瀞騒動」の記事については、「長瀞騒動」の概要を参照ください。
騒動までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:18 UTC 版)
寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、江戸幕府の直轄領である隠岐は松江藩の預地となっていた。 隠岐では中村出身の中沼了三が天保6年(1835年)に上京しており、鈴木遺音に儒学を学んだ後、烏丸竹屋町に私塾を開いていた。幕末期には隠岐出身の井上甃介や中西毅男などの若者が上京して中沼に入門しており、中西は隠岐に帰って私塾「膺懲館」を開いていた。 嘉永5年(1853年)の黒船来航以来、隠岐でも外国船の出現や上陸などがあり松江藩では対応を迫られた。松江藩は文久3年(1863年)に、隠岐の軍備増強のため、当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し、藩士の錦織録蔵がこれを指導した。しかし、隠岐の島内では疫病や凶作による食糧難と米の高騰が続いており、慶応元年(1865年)には西郷で打ちこわしが発生した。農兵の暴動を恐れた松江藩は、慶応3年(1867年)5月には武芸差留を布告して農民の武器の所持を禁じ農兵隊は廃止された。 中西や井上の師にあたる中沼了三は元治元年(1864年)に大和国の十津川に「文武館」(現・奈良県立十津川高等学校)を設立していた。慶応3年(1867年)に隠岐に戻った中西は井上や忌部正弘らとともに5月に松江藩の郡代である山郡宇右衛門に「文武館」設置の嘆願書を提出したが認められず、翌月再提出した嘆願書も再び却下された。12月には松江藩に直接直訴するため安部運平が松江に赴いて嘆願書を提出したが却下された。そのため島民有志は徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうことを決意する。忌部、中西、井上ら11人は慶応4年(1868年)2月に密かに脱島したが、悪天候のため浜田に漂着し、浜田藩を占領していた長州藩の取り調べを受けた。そして、この時、王政復古がなったことを知って帰島した。 一方、松江藩とは大久村庄屋の齋藤村之助が交渉に当たっていたが、山陰道鎮撫使総監の西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、松江藩の役人が庄屋らに渡る前に開封していたことが露見した。この書簡には隠岐が松江藩預から朝廷御領に移されたことが書かれていた。
※この「騒動までの経緯」の解説は、「隠岐騒動」の解説の一部です。
「騒動までの経緯」を含む「隠岐騒動」の記事については、「隠岐騒動」の概要を参照ください。
- 騒動までの経緯のページへのリンク