騒動の開始
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1916年(大正5年)10月4日、大隈が辞表を奉呈すると、高田も文相を辞職することとなった。1917年(大正6年)8月31日には天野の任期が切れることもあり、「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授グループなどに高田を再び早大学長に復帰させる動きがあった。維持員会の大勢は高田派であり、6月17日には高田・坪内・市島謙吉・浮田和民らが協議して高田の学長復帰を合意し、翌日大隈に報告している。しかし天野の秘書佐藤正が、天野を排斥して高田が復帰しようとしているという記事を『万朝報』や『中央新聞』に持ち込み、大きな社会問題となった。 大学内教職員の多くが高田派であったのに対し、学生たちはおおむね天野に対して同情的であり、早大出身の憲政会代議士からも高田の学長復帰を「政治的背信行為」と非難する声が上がった。やがて天野派は石橋湛山(ジャーナリスト、のちの内閣総理大臣)の下に集結し、斎藤隆夫や西岡竹次郎などの有力校友も牛込天神町の東洋経済新報社に出入りするようになった。坪内逍遥は石橋を「ケレンスキー」と呼んで激しく非難した。 維持員会は事態を解決するため高田の学長復帰を断念し、天野は任期満了で退任という形を取ることとした。しかし天野は大隈の勧告にも従わず、学長を続ける意思を明らかにした。8月17日、維持員会は学長を当面置かず、理事7名によって運営を行うことを決め、大隈の承認を得た。高田は名誉学長の称号も終身維持員も辞退し、天野も8月31日をもって学長を退任した。
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