騒動へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:21 UTC 版)
秀吉の死後、覇者となった徳川家康も龍造寺氏を無視し、鍋島氏の肥前支配を承認していた。そのため、国主である龍造寺高房は名目上の国主という立場にとどめられ、家康の監視下に置かれていた。成長した高房はこの立場に絶望し、慶長12年(1607年)3月3日、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図る。家臣がこれを寸前で食い止め、医師が治療したため、高房の自殺は未遂に終わった。しかし高房の傷は思ったよりも深く、次第に高房は精神を病んでいき、再び自殺を図ろうとした。このときに腹部の傷が破れて出血多量により、9月6日に死去したのである。父親である政家の心痛は深く、これに生来病弱な体が耐え切れず、10月2日に後を追うように病死した。これにより、龍造寺氏の本家は断絶したかに見えた。 このため、龍造寺の分家である多久氏・須古氏・諫早氏などは高房の後継者として龍造寺本家を盛り立てた功臣・鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙した。幕府もこれを承認し、ここに鍋島氏を肥前の国主とする佐賀藩が正式に成立したのである。慶長18年(1613年)には直茂に対して、幕府から佐賀藩35万7000石の所領安堵の朱印状が交付されている。 無念の死を遂げた高房の遺体は、江戸で火葬された後、佐賀城下の泰長院に葬られた。ところがそれから、高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになったという噂が立つようになる。この話が発展して、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て直茂・勝茂に復讐を企て、鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きとなる。
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