商業教育の開拓者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:33 UTC 版)
以降、商法講習所は農商務省に移管され「東京商業学校」と改称される(1884年)など組織的変遷をたどったが、折からの財政難から同校は移管のたびに行政当局から起こる廃校の動きに直面するにこととなった。矢野は1883年11月、所轄機関の長たる東京府知事・芳川顕正と衝突し、ひとたびは同校校長を辞任したものの翌1884年には復帰し、森や渋沢栄一など官界・財界の有力者の力を借りて廃校の危機を巧みに切り抜ける一方、経営者の手腕を最大限に発揮して日本最初の商業学校の基礎を固めた。そして文部大臣に就任した森のもとで同校を文部省に移管(1885年)させ、ついには日本初の官立高等商業学校への改組(1887年)を達成したのである。この間、彼は1886年共立女子職業学校(現在の共立女子大学)の設立発起人にも名を連ね、同校の創設にも関与した。 しかし長期の在任にともない専権化した矢野の学校運営に高商生は次第に不満を募らせるようになり、彼の排斥を求める学内の声の高まりは学校騒動へと発展した。この結果、多くの生徒が退学処分を受けるとともに、矢野自身もその責めを負い1893年4月ついに退任のやむなきに至った。
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