東京商業学校
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1888年8月22日 - 設立者濱田健次郎の名義で東京府知事高崎五六宛に私立学校設置願提出。ある第一回生の証言によると1888年末に、東京米穀取引所頭取青木貞三、内閣官報局次長高橋健三、同翻訳課長浜田健次郎、同局員川田徳次郎、高等商業学校教授土子金四郎の協議より「東京商業学校」の設立が決定したという。 1889年2月6日 - 設立発起人青木貞三死去 2月11日 - 日本初の私立夜間商業学校「私立東京商業学校」として日本橋蛎殻町の仲買店の空き家を借用して開校。創立および維持責任のための維持員会を組織して学校経営を扶助。開校当初の修業年限は、予科1年、本科2年の3年制。 3月26日 - 広く商業教育の校外普及をはかるため通信教授を行うための「東京商業学校講義録」創刊。 1890年 - 神田錦町の錦城学園の教室を夜間借用し移転。1月21日 - 在校生による「奨商会」の結成。「東京商業雑誌」の創刊(1891年8月の16号まで)。 1891年2月 - 卒業生、浜田健次郎、内田嘉吉ら講師と在校生有志により「東京商業学会」を組織。 9月30日 - 東京商業学会による雑誌「商業」を発刊(1893年6月まで)。 1892年4月10日 - 神田の大火により借用していた錦城学園が被災、成立学舎女子部の校舎に移転。 11月15日 - 篤志家の好意により神田錦町に新校舎落成。 12月11日 - 校友会を創設(後に阪神支部、京浜支部が設立されることとなる)。 1893年3月 - 予科を廃止、本科3年制に改正。 6月 - 川田徳二郎が幹事に就任。 1896年3月 - 川田徳二郎が大阪に転任により、内田嘉吉が幹事に就任 「東京商業学校講義録」廃刊。 1897年12月 - 下村房次郎が幹事に就任。 1898年 - 下村宏が講師として教鞭を取り始める。 1899年2月25日 - 商業学校規程の制定により東京商業学校が甲乙丙種の商業学校の枠からはずされ、経営が悪化する。 11月12日 - 修学旅行開始。 1903年10月1日 - 私立女子商業学校の開設により、1907年まで昼間校舎を貸与し、和田垣謙三が同校の校長を兼任。 1909年11月25日 - 設立者浜田健次郎が1893年6月に大阪商業会議所書記長に就任した影響により、設立者の名義を幹事の下村房次郎と大熊米太郎に更改。今日に至るまで下村房次郎は浜田健次郎と共に設立者として名を連ねる。 12月12日 - 「東京商業学会」と校友会の合併が承認される。 1910年4月 - 英語を主とした修業年限一年の予科を新設。 10月16日 - 創立20周年記念式典を挙行。 1912年 - 明治から大正の時代を跨いで学校経営不振の時代が続き、廃校説 ・合併説が出るなかで内田嘉吉、下村宏らが改善策に奔走。12月15日 - 校友会総会で学校存続希望を決議。 1913年2月21日 - 下村房次郎死去。 4月 - 予科を廃止 一年制の速成科を新設 速成科修了者には、本科1年入学資格を付与。 1914年4月 - 工業に関する学科を設ける。 1915年2月5日 - 東京植民学校との合併問題について、内田嘉吉・下村宏が、石井良一・渋木直一・鈴木威と協議。 2月11日 - 校友会評議員会で合併案協議。下村宏、星一、石井良一、渋木直一の遂行委員が、東京植民学校の新渡戸稲造らと交渉を開始。 3月7日 - 校友会総会で合併案は不成立。 1916年4月1日 - 財団法人私立東京商業学校の設立認可。 12月17日 - 評議員会で、借用中の校舎と敷地の買収と校舎新築を決議。 1917年9月20日 - 新校舎竣工。 11月4日 - 新校舎落成式。 1918年1月18日 - 浜田健次郎死去。 1919年3月9日 - 創立30周年記念式典。 9月18日 - 文部省令により私立の冠称を廃止、東京商業学校と校名を変更。 1921年3月18日 - 夜間甲種商業学校として開校。入学資格は高等小学校卒業程度、修業年限は4年と改正。 4月1日 - 学生服制定。 1922年6月 - 生徒の手により最初の校歌制定。 1923年9月1日 - 関東大震災で校舎を焼失。 10月16日 - 小石川区の京北実業学校の校舎を借用(12月24日まで)。 1924年1月1日 - 神田区仲猿楽町の順天中学校の校舎を借用・移転。 1926年6月20日 - 区画整理を行う東京市の申し入れにより、震災で焼失した神田錦町の旧敷地の売却完了。 1928年3月30日 - 都市復興計画の移転命令で借用先の順天中学が麹町区銭瓶町のバラック校舎に移転。 8月28日 - 借用先の順天中学校が神田区三崎町の新校舎に移転。 1929年3月10日 - 創立40周年記念式典。 1932年2月14日 - 東久邇宮稔彦王台覧のもと夜間甲種実業学校連合閲兵式に参加。 12月23日 - 入学資格を尋常小学校卒業程度、修業年限5年とする学則改正。 1938年2月11日 - 校歌改定(渋木直一作詞)。 1939年3月5日 - 創立50周年記念式典。 1941年3月 - 入学資格を国民学校初等科卒業、修業5年とする学則改定。 1942年6月 - 学校位置、学則変更の認可申請。校舎建築許可申請を東京府へ提出。 12月10日 - 目黒区下目黒の住所に事務所変更認可。 1943年2月 - 昼間部設立が認可さる。1月の中学校令改正公布により、実業学校の修業年限4年制となる。学則改正により、国民学校初等科修了者を入学資格とする昼間部の第一本科、国民学校高等科卒業を入学資格とする夜間部の第二本科が措かれる。 6月 - 目黒区下目黒に移転。 1944年4月 - 戦時非常措置令により「日本工業学校」を併設(同名校の存在により「都南工業学校」と改称) 第一、第二本科の1・2学年を工業科に転換。第二本科の3学年以上が東京商業学校の商業科として残される。 5月 - 校歌改定(下村宏作詞)。 8月23日 - 学徒勤労令により生徒がキヤノン、東芝の軍需工場に配属される。 1945年1月 - 第二本科生徒募集停止。 5月23日 - 空襲で校舎を焼失。自宅が本校の近くにあった元生徒の回想では、空襲では自宅の焼失は免れたが、燃え落ちる校舎は消火の術は無かったという(1948年1月に復帰するまで、中目黒小学校、立教中学校、目黒高等学校、目黒消防署の2階を借用し授業を継続)。 8月16日 - 終戦により動員されていた生徒が学校に復帰。 1946年3月30日 - 「都南工業学校」廃止。商業学校を再開。5年制本科募集開始。 1947年4月1日 - 新学制の発足に合わせて「都南中学校」を併設。 9月30日 - 目黒区下目黒の校地に再建の校舎を起工。 1948年1月 - 目黒区下目黒の校地に復帰。
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