商業捕鯨禁止期間
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1982年、国際捕鯨委員会(IWC)は、捕鯨の一時停止(モラトリアム)を決定した。1988年日本が商業捕鯨から撤退。これにより市場に流通する鯨肉は激減、調査捕鯨で入手したミンク鯨・ナガス鯨の鯨肉を入手して料理したが、1980年代に1人前400円だったハリハリ鍋も800円、1000円と徐々に値上げせざるを得なくなった。 商業捕鯨が禁止されて4年後の1989年からは、「鯨の味を忘れないで」という意味を込めて、大阪の通天閣で採算無視の鯨料理イベント「鯨まつり」を毎春開催した。その行動力が小泉武夫が理事長を務める商業捕鯨再開運動団体「クジラ食文化を守る会」の目にとまり、オブザーバーに指名される。 日本の鯨文化の継承に危機感を持った大西は、商業捕鯨再開は自分に与えられた使命と考え、1990年代からIWCの会議にオブザーバーとして10回以上参加し、鯨食の魅力や捕鯨の必要性を訴えた。しかしそこで大西は反捕鯨団体の嘲笑や日本の説明を聴こうとしない態度に直面し、捕鯨を取り巻く状況の厳しさを知る。 1991年開催のアイスランドでのIWC年次会議の会場となった「ホテル・サガ」では、大西みずから参加者に鯨肉料理を振舞った。現地アイスランドの捕鯨業者提供の冷凍ナガスクジラ12kgを元に、「尾の身」と赤身の刺し身、竜田揚げ、ステーキ、鯨肉入りうどんなどを作り、レイ・ギャンベル(Ray Gambell)IWC事務局長および、ノルウェー、デンマーク、セントビンセント、アイスランドのIWC代表委員や記者44人が参加し好評を得た。費用の30万円は大西の自己負担であった。招待した国で来場しなかったのはアメリカだけであった。レイ・ギャンベルも「実にうまい。東京へ行くたびに鯨肉レストランへ寄るが、いつ食べてもうまい」と上機嫌であった。元々は、総会開催期間中の1991年05月30日に鯨肉試食会をする予定であり、大西はホテル側と場所と人材の手配の交渉を済ませていたが、日本の代表団が捕鯨反対国を刺激しないために総会終了後の開催を要請し、6月2日に変更された。捕鯨に反対するグリーンピースは試食会会場には来なかったが、メンバー1人がレストランを訪れ鯨の刺身とステーキを食べ、匿名を条件に「ベリーグット」と言い残して去った。 1992年には日本の鯨料理専門店は10店舗に減った。商業捕鯨をしていた時代の在庫の肉も少なくなり価格は高騰。上質の赤身でキロ1万円、「尾の身」はキロ4万5000円にもなった。1997年には徳家でのハリハリ鍋の値段は1人前4000円となった。値段は高くなったが、調査捕鯨で供給される鯨肉は小型のミンク鯨だけになり、味は落ちた。一番美味しいとされるナガス鯨の肉は入手できなくなった。「尾の身」も新規の入荷が無くなり、冷凍庫に保管している在庫のみになった。 2009年12月1日からは、ビルの3階スペースを使って「徳徳亭『毎日寄席』」という寄席が始まった。落語家の桂春蝶、林家染左、講談師の旭堂南青ら企画に賛同した15人が日替わりで午後3時から日替わりで約1時間公演し、午後4時からは鯨刺し身、鯨竜田揚げ、ビールなどが振舞われた。企画はトリイホールの鳥居学社長だった。鯨食文化は大阪の大切な食文化であると、鳥居社長と意気投合しての開催であった。また若手芸人の活躍の場を設ける意味もあった。 2011年には、サエズリが以前の10倍の値段になった。コロも以前は黒門市場に山積みで販売されていたものが、日本全体で1年間に鯨1頭分のコロしか流通しなくなり、手の平程度の大きさで5000円を超える高級食材になった。 2014年3月31日には国際司法裁判所で南極海での調査捕鯨を禁止する判決が出される。大西は「困ったことになった。商業捕鯨再開に向けて取り組んでいる中での今回の判決で、日本への影響は計り知れない」「商業捕鯨が一時中止が決まった直後と同じ気分、かつては店頭に安価で並び庶民の味だった鯨肉だから大事な日本の食文化を守りたい」とコメントした。この頃は、捕鯨国のアイスランドからの輸入の冷凍鯨肉を使ってしのいでいた。1995年には書籍「徳家秘伝 鯨料理の本」を執筆し、同時に英語訳版も発売した。2016年に開設した店のホームページには、なぜ一律な商業捕鯨の禁止が不当なのか、なぜ商業捕鯨再開が必要なのかを訴える「Q and A」が掲載されていた。
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