再開運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 02:32 UTC 版)
享保8年(1723年)7月、高松喜六など4名が道中奉行所に宿場の再開を願い出る。宿場廃止に伴う町人の窮乏や、高井戸宿・伝馬町の負担増を理由とし、再開の際には1100両を上納するとの内容だったが、再開は認められなかった。 享保20年(1735年)には、逆に幕府側である南町奉行所から日本橋の伝馬町に対し、内藤新宿再開の検討をするようにとの指示が出る。やはり高井戸宿では遠すぎて問題が多かった。しかし実際に伝馬町が提出した再開願いは、元文2年(1737年)に吉宗の御側御用取次であった加納久通により却下されてしまう。 続いて、内藤新宿の西にあたる角筈村に宿場を新設する案が出る。寛保から明和年間にかけて数度に渡り開設願いが出されるが、いずれも認められることはなかった。これらの宿場再開・新設願いが却下され続けた理由は、廃止の際と同じく風紀上の問題が懸念されたためという。
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