十村制が招いたこと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:56 UTC 版)
利常は50年にも及ぶその治世の大半をこの改革に費やし、十村のシステムを完成させたのであった。この結果、家臣は農村からの直接収入を奪われ、藩から支給される扶持により生計を立てることになる。これが後の5代藩主綱紀や6代藩主吉徳らの藩主独裁を目指す藩政改革、ひいてはその後の加賀騒動へとつながるのである。 また、十村は初期に浦野事件(1665年 - 1667年)に加わった園田道閑らを例外として、藩体制の末端として、百姓一揆の矢面に立たされる存在となっていった。 19世紀初頭(文化、文政年間)に藩主を務めた前田斉広が疲弊した農村を復興させるために改作法を復古させるため、現場の主導的立場を十村に担わせたこともあった。しかし災害などが頻発して収穫が思うように得られず、十村が責任を負わされて集団で処罰を受ける出来事もあった。
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