十村公選制と榎本武揚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 23:32 UTC 版)
忠次郎は一揆の初期段階において十村公選制を要求の柱としていた。これについて玉川は榎本武揚がいわゆる「函館共和国」の樹立に当たって総裁以下の顔ぶれを入札(公選)によって選任した史実を指摘した上で、この十村公選制という要求が「函館共和国」に端を発しているという見方を紹介している。忠次郎はばんどり騒動が勃発する前年の明治元年まで約10年間、故郷を離れ日本各地を渡り歩いており、その過程で函館にも渡ったとされている。十村公選制という要求が「函館共和国」に端を発しているという見方はこうした事実を踏まえたものではあるものの、玉川も指摘しているように、榎本らが蝦夷地に上陸したのは明治元年10月20日であり、「函館共和国」の樹立は12月15日。それに対し忠次郎は改元(9月8日)まもなく帰郷したとされているので、十村公選制という要求が「函館共和国」に端を発しているとは考えにくい。一方で玉川は同書執筆のための取材中に忠次郎の熱心な顕彰者という人物から「忠次郎は榎本武揚と親しかった」と聞かされたことを明かしており、地元住民の間では忠次郎と榎本の交流まで取り沙汰されている実態を伝えている。
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