ばんどり騒動とは? わかりやすく解説

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ばんどり騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 06:04 UTC 版)

ばんどりを着用して蜂起する人々

ばんどり騒動(ばんどりそうどう)は、1869年明治2年)に越中国新川郡において発生した一揆。『国史大辞典』においては富山県新川郡一揆と題されている[1]

概要

ばんどり騒動は越中国新川郡における凶作を直接的要因として、1869年11月15日(明治2年10月12日)より百姓による集団的嘆願が開始され、同年11月27日(同年10月24日)から同郡の十村等の邸宅へ打ちこわし等の手段を用いて暴動化するに至った一揆であり、当地においてばんどり[2]と称せられるを参加者が纏っていたことを以てこのように通称されている[1][3][4]。本騒動の首魁と目された忠次郎の名をとって忠次郎騒動との通称もある[1]。同年12月4日(同年11月2日)に至るまで郡内各所において破壊活動が継続され、同年12月5日(11月3日)に首謀者が逮捕され鎮圧をみた[1][3][4]

「明治初年の代表的な農民一揆の一つ」といわれ[5]、同時代における会津世直し一揆及び上田贋造二分金騒動と共に史上に重要な事件として評価されている[6][7][8]

騒動の背景

1869年(明治2年)の夏、越中国においては例年に比べて雨が長く降り続き、各所においてこの天候不順のために稲熱病が蔓延して稀に見る凶作となった[9][10]。この凶作にあって礪波郡においては早くから事態を見通し、の作付を急がせ、天保年間の凶作を教訓としての実や野草等の調理方を垂範し、1869年11月30日(明治2年10月27日)までに勧農局より御取扱米52,415石と銭5万貫あまりを困窮人へ貸渡している[9]。また、礪波郡に加えて射水郡においても金沢藩へ年貢を幾分減免するよう請願がなされていた[10]。しかし、特にひどい凶作に見舞われた新川郡治局においては凶作の際には取籾米や救米といった名目で年貢を減免する加賀藩時代からの慣例に従わず、十村は平年のごとく藩に対して村々の作柄をみて年貢皆済を請負う約定である「秋縮り」を受けさせた[9][11]。後に至って一旦この秋縮りを受けた以上、年貢の減免は認められないと農民たちが伝え聞いたことが、ばんどり騒動の直接的原因となったのである[12]

また、1868年4月2日(慶應4年3月10日)には北陸道先鋒兼鎮撫使高倉永祜率いる官兵が富山町に至り、同年5月5日(慶應4年4月13日)に薩長兵等約1000名が東岩瀬港に入ると、越中は越後国東北方面に対する兵站基地として機能し、軍需品や糧秣の調達や労役等が人々に課役され、越中の農民は時代の変遷を自覚することとなった[13][11]。1869年7月25日(明治2年6月17日)には前田慶寧及び前田利同はそれぞれ版籍を奉還して、金沢藩及び富山藩知藩事となったが、旧来の十村制は温存され、上新川においては岩瀬、下新川においては魚津の郡治局がこれを統括していた[14][15][16]。時代が改まったにもかかわらず温存された十村制に対する憤懣もばんどり騒動の遠因であって、農民たちはこの騒動を通じて十村の公選制を要求しており、明治維新による新政府に対する人々の期待感が背景にあった[17]。当時の十村制が往々人々を苦しめていたことは、阿部甚十郎の家臣であった中山守衛が明治2年の管見書において次のように述べている[18]

夫民ハ国の本与御座候間、如何ニも至当之者へ郡宰等被仰付無之而者、農民之疾苦不少義に御座候、其謂者、是迄一切十村共へ委託被成置候に付、彼者共我意を張、百姓共を苦しめ候次第、言語ニ及び難く、就中十村之内頭取与申者者、御領国中之改作幷人別頣にて指揮罷在候権勢、夫故右頭取共一家子弟五六人宛御用為務、御扶持等頂戴罷在、其仕ひ候手代与申者者権威郡宰之如く、十村之権勢ハ地主之如く相成居申候、夫故に御城下近き所と雖も憚る色なく、謂れなき奸計を相巧み、賄賂を取掠め、下民の怨恨を醸し候事共不少哉に承り申候、況能越辺鄙に至り候而者、如何之所業有之候も難斗、畢竟門閥ニて世ニ相続仕来候故、権威も強く相成居申候

具体的には1668年寛文8年)に新京枡を用いることが定められていたにもかかわらず[19]、往々古い枡を用いて米を多く略取し、米の良し悪しを検査する際に敷くに零れ落ちた米を着服するといった十村の悪風が指摘されている[20][21]。『下新川郡史稿』は次のように述べ、騒動の原因はこうした平素からの十村の行状と当年の饑饉における対応にあると論じている[22]

当時十村等役人の内、或は己の利を計りて、上に阿り、下を虐げ、下民の窮状を上達するなく、或は租米の収納には大斗を用ひ、出すには小斗を以てし、或は下敷筵を敷かしめ、米の善悪を検査するに、故らにこぼれ米を多からしめて、之を所得とし(此悪風は古来あることにて、嘗て命を下して、之を禁じたることあり)、或は御蔵米を減損せしめて、其過を百姓に嫁する(古来缺減米の規定あり、月により、御蔵米の缺減高を定め、其以上の缺減あるときは、十村等の責任とせり、後ち百姓より之を償ふこととなれり)等、悪風甚しきに至り、天保の飢饉に続きて、嘉永の凶作あり、明治元年に至り又作損ありたるも、多少の扱米(租米の内免除するを云ふ、此頃は引免等の法なし)等をなし、漸く䌤縫するを得たりしも、不幸にして翌二年の大蝗害、大凶作となるに至りしかば、村々より検分見立を願出で、尚ほ救米・扱米等をも願出でしに、連年のことなれば、十村共も之を抑制せんとせしものか、言葉を設けて、先づ秋縮(秋縮とは収穫の時に至り、租米等相違なく上納すべしとの證書を出すなり)を受けしめ、然る後に至り、既に秋縮を受ける後なれば、扱米・救米を稟請するの謂なしとて、農民を圧制・威嚇したりしかば、今迄の憤慨、一時に激発し(後略)

騒動の経過

嘆願や集会の拡大

1869年11月15日(明治2年10月12日)に東加積組印田新村[23]領に70から80名の人々が集結したのを端緒として、新川郡内各所において人々による集会が開催され、十村や郡治局に対する集合嘆願が開始された[12][24][25]。『越中史料』の引く「新川郡百姓動乱留」によれば、同年11月19日(同年10月16日)に大布施組御用所へ1000人、同月22日(同年同月19日)に魚津郡治局へ嘆願のため下村木村[26]に2000人、同月23日(同月20日)に下布施組の人々が1000人と中加積組中嶋村領に200人集結と新川郡各所へこの動きが波及していった[12][27]

同月25日(同年同月22日)には上条組上川原村[28]へ舟橋村や清水堂村[29]等の附近部落民が集結したが、この中には各村の指導者的立場にあった人々も含まれ、彼らは口々に今時の凶作にあって救恤を行わないばかりか、家財を売り払っても年貢を完納せよと迫り、饑餓に苦しむ者は撫育所へ入るよう求めてくるとして十村に対する不満を吐露し合った[12]。こうした集会が夜に及んでも人々が問題解決の糸口が見いだせずにいたところ、塚越村[30]の忠次郎は率先して自ら一命を擲って願い出る旨を申し出、翌26日(23日)に村肝煎へ嘆願したが、全く取り上げられなかったので、彼は直接金沢へ赴き嘆願を行うことを決心した[12][25]。同夜、再び附近村民が清水堂村にて千人あまり集会し、これに忠次郎も参加した[12][24]。岩瀬の郡治局からはその鎮撫のため数名の留書足軽が派遣されていたが、人々はこれを追払い、27日(24日)の夜明けと共に寺田極楽寺村の十兵衛宅を襲撃し、空腹を満たし、酒を飲んで若宮川原へ引き上げた[12][24]。忠次郎はここで金沢への直訴を主張したが、金沢ではなく十村に対して請願すべきであるという人々に押し切られ、金沢への直訴は立ち消えとなった[12][24][25]

ばんどり騒動への発展

やがて約5000名にまで膨れ上がった人々は漸次暴徒化し、まず弓庄組才許御扶持人十村の神田村[31]結城甚助宅へ向い、炊出しを要求したが多人数を理由として拒まれたので、同宅を打ち壊し、妻子を暴行し、書物や家財を焼き払った[12][24]。これに続いて高野組平十村の新堀村[32]朽木兵三郎宅を襲撃し、打ちこわしを行った[33][24][25]。明けて28日(25日)には人々は上市往来を西に向い、常願寺川にさしかかったところで、鎮撫のために出張してきた新川郡治局下役の岩田大作の一行と際会した[24][33]。ここにおいて忠次郎らは次のように要求を行った[24][33][34][35]

一 御収納方納斗枡、是迄の分にて者過分其損分ニ相成候間、新京枡相願申度。

一 下り敷壱組切惣代役人にて致候得共、勧農局被仰渡候通、其村肝煎手前にて致し貰度旨。
一 米積人壱組切惣代ニて雇候得共、勧農局被仰付通、斗人ニて積付申度旨。
一 御収納米払之節、欠米百姓共え弁米被御渡候ニ付者、十村手代え積蔵鍵相渡置候て者懸念ニ御座候ニ付、納中ゟ払切迄村々ゟ昼夜両人宛御蔵所へ相詰御蔵番増番仕度、就て者焼飯代御渡ニ相成候得者、猶以難有候得共、併此義者御渡無御座共増番不致て者懸念之由右願て通被仰付候上者、過分欠米相立候共不苦手代え鍵渡置欠米相立候時者弁米難致旨。
一 百姓共召仕候下人組米是迄之相対を以取請来候処、当八月比才許ゟ壱人壱石弐斗と相定候旨致廻文候得共、是迄右組米を以御収納指継ニ致し来候処、右様相定候て者御収納も致兼候旨。
一 当年取上げ米ハ御収納致し候得共、是を相納候て者、来年取上げ候迄、喰続兼候間、不指支様御取扱ニ預り申度旨。
一 組裁許ゟ比日懸番申談候得共、前四ヶ条願て通御聞届御座候得者、取上げ候丈相計可申旨、右聞届無之内者、懸番申談候共相計不申旨。
右之通御座候事。

巳十月廿五日

岩田大作はこの嘆願を金沢へ伝えることと同年12月2日(10月29日)まで回答する旨を返答し、それまでは騒ぎを起こさないよう農民たちへ説諭した[24][36][35]。これを受けて人々は一旦退散したものの、以降も引続き打ちこわしが各所で頻発し、11月28日(10月25日)夜に下条組平十村の湯上野村[37]結城善之丞宅と新田才許の石仏村[38]庄左衛門宅、29日(26日)に広野新村[39]の与助宅、広野村[40]の平右衛門宅、北島村[41]の六右衛門宅、法音寺村[42]の庄右衛門宅及び広野新村の文助宅等、30日(27日)には中加積組平十村の宝田六左衛門宅が襲撃され、また方々で農民たちの集会が行われた[24][36][35]

無量寺(中新川郡舟橋村)


金沢からの回答があるべき12月2日(10月29日)を迎えて、竹内村[43]無量寺には高野村、弓庄村、上条村及び下条村の各組200ヶ村の数千人の農民が集結したが、約束の回答は遂に来たらず、農民たちはついに実力行使を行う決意を固め、忠次郎を駕籠に載せ、「忠次郎大明神」と記した筵旗をたて、法螺貝太鼓を打ち鳴らして行動に移った[24][44][35]。忠次郎は「今度は何れも一心同腹に相成可申、就夫一軒より一人宛罷出候得共、人多に相成候故、後日に至り仮令御穿鑿に相成候ても縛り候にも縄も尽き、牢に入れ候にも入れ所無之故、大勢罷出候事にいたし候事にて、其上何とか申義有之候得は私引請可申候」と人々を激励し、この騒動の棟梁たる立場を明確にした[24][45][35]。以降、忠次郎の身辺は厳重に警護され、その妻の実家であった田家村の源四郎も面会が許されなかったという[46]

人々は二手に分かれて、一隊はまず佐野竹村[47]の宗次郎宅、続いて石仏村の七左衛門宅を襲撃し、上市往来へ向った一隊は上市より北上して、森尻村の結城善之丞宅を襲撃して上市川の堀江橋附近において再び合流した[45][24][48]。ここからまた再び隊を分かち、別隊は塚越村の宗三郎と浅生村[49]の伊七郎の指揮するところにより滑川へ向い、本隊は小林村[50]の平十村たる宝田六左衛門宅及び同十村の手代たる栃山七口新村[51]の多助宅を襲撃し、魚津方面へ前進した[45][24][48]。こうして12月3日(11月1日)までに相木村[52]まで前進した人々の数は数万にまで膨れ上がっており、吉島村[53]の神保助三郎宅を襲撃したのち、12月4日(11月2日)の夜まで三日市から入膳、泊町の下新川一帯において十村や肝煎の邸宅へ打ち壊しを敢行、その襲撃に遭難した数は43戸に及んだ[54][24][48]

「新川郡百姓動乱留」においてはこの騒動に際しての打ちこわし被害を次のように記している[55][56]

    家并土蔵等取毀之覚

十月廿四日  家并土蔵等三つ取毀 御扶持人十村 結城甚助
同夜     家并土蔵等弐つ同断 平十村 朽木兵三郎
同二十五日夕 家取毀納屋壱つ焼捨 同断 結城善丞
同夜     家取毀       新田才許ニ而組才許石仏村 七右衛門
同二十六日  戸障子等取毀    広野新村 与助
同夜     同断        同村   文助
二十六日   戸障子等取毀    広野村  平右衛門
       同断        北島村  六右衛門
       納屋焼払      法音寺村 庄右衛門
二十九日夕  土蔵弐つ取毀    石仏村  七左衛門
       但再取毀
二十五日夜  家取毀       結城善丞手代森尻村 茂兵衛
二十九日夜  家并土蔵弐つ取毀  平十村 宝田六左衛門
同夜     家取毀土蔵焼捨   同人手代朽山七口新村 多助
同夜     戸障子等取毀    佐野竹村 宗次郎
同夜     家取毀       笠木村 孫右衛門
朔日暁    家土蔵共取毀    無組御扶持人十村並 神保助三郎
同日     家取毀       同人手代吉島村 孫兵衛
同日     同断        同断同村    甚作
同日     同断土蔵弐つ取毀納屋壱つ 紋左衛門手代同村 甚右衛門
朔日夜    壱軒焼捨      平十村田家新村御用所 米沢紋左衛門
同日     家焼捨土蔵弐つ同断 同断 神保裕三郎
同日     家取毀       同人手代三日市村 清蔵
同日     同并土蔵弐つ同断  紋左衛門手代同村 善蔵
同日     家取毀       裕三郎手代同村 伝三郎
同日     同断外ニ納屋壱つ  達次郎手代同村 藤右衛門
同日     同断        裕三郎手代同村 彦十郎
同日     同断        同同村     長次郎
同日     家土蔵取毀     仏田村     平兵衛
朔日夜    家焼捨土蔵取毀   平十村     野島和七郎
同日     戸障子等取毀    入膳村     与三九郎
同日     同断        和七郎手代同村 丈右衛門
朔日夜    戸障子等取毀土蔵壱つ同断 紋左衛門手代入膳村 重五郎
二日夜    家并土蔵焼捨    大家庄村    六郎右衛門
同      同断        月山村     宗右衛門
同      家并土蔵四つ取毀内壱つ焼捨 御扶持人十村 伊藤彦四郎
同      家取毀       次郎左衛門手代泊町 清之丞
       同         同同所     次右衛門
       同         同同所     勘右衛門
       同         幸右衛門手代同所 恒右衛門
       同         同同所 新八
       同         同同所 栄次郎
       同         和七郎手代同所 清六
二日     家焼捨土蔵等三つ同断 平十村 伊藤幸右衛門
朔日夜    同断土蔵弐つ同断  御扶持人指加十村 田村前名
朔日     家取毀焼失     山廻リ齋木村 新三衛門
同日     家取毀       宮津村 平右衛門
       同断        出村 助右衛門
       同断        大海寺新村 助七郎
       同断        大海寺野村 長八
       同断        金山谷村 与三右衛門
       同断        観音寺村 茂三郎
       同断        鹿熊村 九郎右郎衛門
朔日夜    家土蔵共取毀    中新村 覚右衛門
二日夜    同断        新田才許舟見村 茂兵衛
朔日夜    同断        生地町 平
同日     同断        椚山村 武右衛門
同日     家取毀       石田村 吉右衛門

同日     同断        同村 与次郎

12月4日(11月2日)の夜、忠次郎は泊町の小沢屋与三左衛門に招聘され、同人宅において饗応を受けた[54][48][24]。小沢家は天保年間に黒部川流域に新田開拓を行い、その功により平十村に任ぜられた地主であったが、同宅においては金屏風大蠟燭を灯し、また酒に豪奢な羹を供し、家の者はみなを着てあたかも大名を迎えるかのように忠次郎を饗し、他にも多くの人々が魚や酒を持参して打ちこわしの勘弁を願う者がひきもきらず訪れたという[48][54][24]。伊藤治郎左衛門が当局側へ送った注進状によれば、小沢宅において忠次郎は次のごとく語ったと伝えられる[57]

賊頭塚越村忠次郎儀、泊町止宿の節、同類棟取へ相撲共六七人計りへ対し申入れ候へば、只今にては新川中の十村共等残らず焼払ひ、御郡中我ものに致し候上は、是れより岩瀬郡治局に出、郡宰に逢ひ引合ひに及び願ひの事申入れ聞届候へば、一段の義さなき時は了簡有之、仝局焼払ひ、夫れより山を越し御城下へ出で、土佐守殿に逢ひ願の趣申述べ、其上にて太政官に出候へば、急度聞届けらるべし。我等桜宗五郎より十倍増しの者にて、纔かに十石二十石の高持の身として五六万の勢を引連れ、新川中を手に入れ候義大慶の至り、命を取られ候ても大名にも勝れたる事、然し我願は百姓成り立ちの義に候へば、左様の障りは必定無之、農は国の本にて其の成立を願ふ事故、太政官は急度聞届相立つべし。心丈夫に群勢を召連れて、我れに連れたち参るべしなど申入れ候趣、傍らに居合せ候給仕の者承り候段申聞候。

騒動の鎮圧

一方、新川郡宰たる山本又九郎は、一揆鎮圧のために各所と連絡して金沢からは約370名の火砲方・兵政方が出動し、また富山藩に対しても応援を要請し、一揆の群衆が泊から境を抜けて越後に至り、そのまま江戸方面へ出ることを危惧して、郡治局の兵卒を率いて海上より境に上陸していた[58]境関所は既に同年2月に廃止されていたが[59]、ここにあった足軽番所の銃卒と合流し、12月5日(11月3日)払暁、小沢宅に睡眠中の忠次郎等を暗殺するため伊藤周造率いる岡群五郎らの探索部隊が襲撃した[58][60][61][62]。この暗殺自体は失敗したものの、やがて境からの軍勢による銃撃によって農民勢は瓦解していき、朝のうちには忠次郎も捕えられ、別隊を率いて行動していた宗三郎や伊七郎も逮捕され、新川郡中において打ちこわしを行ってきた人々はここに鎮圧されるに至った[58][61]。なお、12月6日(11月4日)には金沢より騒動鎮圧のため中隊二組が出発していた[63]

加賀藩においては1869年5月7日(明治2年3月26日)に官制を改革し、従前の算用場を廃して会計寮及び民生寮を置き、その下に市制局と郡治局を置いたが、この際に郡奉行のもとにあった与力や足軽があらかた金沢に引き上げることとなり、これがばんどり騒動を大きくした一因ともいわれる[64][16]。同夜、この騒動を引責して岩瀬郡治局少属後藤喜兵衛は割腹自殺を遂げた[58][48]。同人の自決は藩庁より「忠誠より出候仕抹、深被遊御感惜候」としてその養子たる正太郎への相続が認められ、また賻金として金10両が送られた[65]。また、「新川郡百姓動乱留」によれば、本鎮圧の過程において銃撃あるいは刃傷により10人が死亡した[66]

獄中における嘆願

かくて捕縛された農民勢のうち、忠次郎を除く首班と目された浅生村の伊七郎、塚越村の宗三郎、寺田極楽寺村の文三郎及び同村の権右衛門は、12月6日(11月4日)より岩瀬の郡治局において詮議を受け、のち金沢へ引致せられたが、12月8日(11月6日)には四名の連署を以て十五箇条に及ぶ嘆願書を提出し、その要求貫徹のための努力を継続した[67][48]。その内容は次のようなものであった[68]

  乍恐嘆願を以御願申上候

近年不作打続、百姓行々困窮落入、別て当作之義者、兼て御検分被下候通、非常之難作ニて、御収納米者不及申、百姓共飯米ニ至迄、今日喰続方も無御坐ニ付、先般御償米等御願申上候得共、組々御才許ゟ何等も御沙汰無之ニ付、今般百姓共、組々御才許え、押て御償米御願出候処、不計人多ニ相成、御願之筋区々ニて、迚も御聞届ニ不相成、然処、此度私共義、御召出御詮議之上、百姓御願之筋、御嘆願を以、御聞届被成下、難有仕合奉恐悦候、仍て当今之御時節甚だ恐多奉存候得共、乍恐百姓御願之筋、左ニ奉願上候。

一 御一新御改革之御趣旨を以、御侍御代官十村等御代官不残御指止、百姓直納ニて、十ヶ村惣代を以、納方被仰付置候処、其後組々御才許手代納ニ被仰付、此義百姓共ニおゐて、甚だ不心服至極ニ奉存候、何分御一新之御趣意ニ御座候ハゞ、何卒百姓直納ニて、十ヶ村惣代を以、納方被仰付置可被下候、兎角十村手代納ニて者、先前之ニて、煩敷品等御座候間、百姓迷惑之筋ニ御座候。
一 御蔵計枡之義者、先前之計枡ニて者、百姓以之外御米過分ニ入増申ニ付、是又新京枡を以、御米納方奉願上候、新京枡之義者、十ヶ村〳〵え、壱本宛被仰付可被下候、右新枡代銭之義者、百姓共ゟ急度上納可仕候間、願之通被仰付可被下候。
一 御収納米積卸蔵之義者、組切積合ニ被仰付候て者、万一御払米之砌、欠米等御座候刻者、弁米方ニ甚だ混雑仕候、何卒十ヶ村切積合ニ被仰付、尤御蔵御鍵之義も、十ヶ村え御預け被仰付置可被下候、此度被仰渡候御蔵勢子人等相立候て者、勢子人足料、是又百姓不益之筋ニ御座候間、願之通、被仰付可被下候。
一 御一新御改革を以、御代官御差止之上者、御収納米迄、御取立候、口米之義者、何卒自由之義ニ御座候得共、御用捨被仰付可被下候。
一 御蔵下敷之義ハ、是迄御代官宿之者、引受御収納米石ニ付、壱升宛取立候義、百姓一統迷惑之筋ニて相歎居候処、今般御代官御差止之上者、右下敷迄百姓共ニて仕度、此段願申上置候処、組々ニおゐて下敷勢子人肝煎役之者、御見立御取極ニ御座候得共、是又御代官宿之者、下敷引受候義ニ似寄、別て勢子人足料等煩敷品附廻、迷惑族ニ御座候間、何れ下敷入用之品ハ、筵ニ不限、ほい草ニ至迄、百姓所用之品ニ御座候間、百姓共ニて下敷仕候間、御聞届奉願上候。
一 御蔵米積之義も、是迄御蔵ヶ所〳〵ニて、町人を以相勤来候得共、是又積賃等附廻、迷惑之筋ニ御座候間、御収納計人、百姓共ニ積入被仰付可被下候。
一 組御才許ゟ被仰渡候者、前段納方組御才許手代納之上ハ、欠米仮令壱升相立候得者、早過怠米三升宛弁米可被仰付段、被仰渡、此義百姓共ニおゐて不心服至極ニ御座候、壱升之欠米ニ弁米三升被仰付、差引弐升欠弁米如何被仰付候哉、是等迷惑之義ニ御座候、依て、かく弁米百姓共え被仰付候義ニ御座候ハゞ、御蔵番百姓共え被仰付可被下候、番賃之義ハ、百姓ニおゐて相勤候得共、勤番中飯米迄、乍恐御上様ゟ被仰付可被下候。
一 御組人御蔵宿之義者、是迄御米納方蔵宿引受、納方相勤居候得共、御代官米同様納方十ヶ村納ニて、計枡之義者、新京枡を以、計立被仰付可被下候、勿論蔵宿納中ニたてりと歟しゝめと歟申者、一と蔵宿ニ六七人宛相立居、右之者給米ニ百姓納米石ニ付壱升宛取立申候、此義百姓共ニおゐて迷惑不少難義仕候間、右躰之者、一円為入込不申様、厳重被仰付可被下候。
 附り御蔵鍵御蔵番下敷等、都て御蔵懸之品、御長屋所、御蔵同様被仰付置可被下候。
一 当作之義者、前顕奉申上候通、非常之難作ニ付、御収納御償村え米五歩通、御聞届奉願上候、残五歩通之分者、此砌百姓共ニおゐて、聊出道無御座候得共、一統粉骨砕身仕、御蔵納仕度奉願上候、此義当今之御時節、実ニ奉恐入候得共、迚も御収納米出道無御座候ニ付、恐も不顧奉願上候間、幾重ニも御聞届奉願上候。
一 天保度以来、新川郡村々毎ニ、手上高、手上免、時々被仰付、百姓共一統、迷惑困窮至極仕申候、元来地元、得と御見分無御座哉、地元宜敷所者、夫々御手上高被仰付候義ハ、御尤之御義と奉存候得共、地元悪敷ヶ所者、格別之御手上高被仰付置、百姓共追々困窮仕候為躰ニて、難渋至極罷在申候間、御憐愍之御詮議を以、地元悪敷ヶ所え、改て引免被仰付可被下候、右候得者、此後百姓共上ニ随ひ、引免為立帰御益相勤可申候間、何卒願上通、御聞届被下候様、奉願上候。
一 近年御郡打銀、先年とハ過分至極ニ御取立相成、百姓共行方も無御座候得共、上納不仕て者、厳重御咎方も被仰付候事故、無據被仰付通、無滞上納仕来申候得共、余り過分之御郡方万造ニて、入用高足巨細ニ被仰聞候様、御願申上度御座候得共、其義者、奉恐入候事故、此後御郡万造御取調理之砌、百姓為相見、御郡之内見元人柄之者両三人御立被成下、相帳為附候様、奉願上候。
一 年々、返上米相計候分者、都て年限を以、返上仕来候処、年々、返上米減少可仕筈之処、其義一切無御座ハ、幾年返上米相勤候ても、聊減方毛頭無御座、依て此末返上米見消、御用捨ニ被為仰付候様、奉願上候、百姓共におゐては、不作之砌、被仰付候御貸米者、被下切之ものと相心得候処、返上数十年相勤候て者、行々衰弱仕、成立方も無御座候間、返上米見消御用捨之義、御願上候義、是又当今之御時節奉恐入候得共、今般御一新之御趣意を以、百姓共願之通、被仰付置可被下候。
一 籾納之義ハ、非常之ためニ被為成置、第一軍用之品と及承候処、則去る辰年越後筋為御軍用米、籾納摺立被仰付候処、莫大至極之欠米相立、右弁米ハ都て百姓共ゟ御取立ニ被仰渡、此義一統迷惑至極仕申候、五斗之籾精米弐斗五升仕揚候義者、五合摺ニて、必ず籾五斗之精米弐斗五升余仕上る申者ニ相違無御座候間、此後籾納計立候義者も、百姓十ヶ村ニて納方被仰付置、御蔵御縮方前願御蔵同様ニ奉願上候、兎角十村手代納ニて者、増々煩敷奉存候間、宜敷御詮議奉願上候。
一 改作仕入屎物之義者、是迄所々商人ゟ買受仕、開作、精農罷申候得共、兎角商人ゟ買受仕候て者、屎物高直至極ニて、迚も百姓成立申兼候間、何卒来開作ゟ乍恐御上様ニおゐて、松前屎物等仕入被下、百姓共え御売渡し奉願上候、中ニも小百姓受作之人々春来屎物代所持不仕、商人ゟ屎物借受、右代銭ニ屎物代入済、限月迄一五之利足仕、右候へ者、小百姓之者、衰微之根元ニ御座候間、右等之者、屎代上納之義者、村々役人ゟ取立候て、必ず上納為滞申間敷、其外屎代所用之者、村役人ニおゐて勢子仕、聊御難題之義、為仕申間敷候、何分屎物之義者、百姓開作、仕入第一之品ニ御座候間、願之通、御仕入屎御聞届奉願上候、本文之義者、如何様共、被仰渡通、厳重相守可申候間、何分ニも御仕入屎を以、百姓共え御売渡奉願上候。
一 近年諸色高直ニ随ひ、米直段格別高直ニ相成、下々迚も取続兼申候、中ニも町人之人々別て、行兼申候間、此許之飯米直段ハ不及申、諸色三割下値ニ被仰付可被下候、左候得者、万民太平之渡世仕可申義と奉存候。

右乍恐ヶ条書を以、御願申上候通、格別之御詮議を以、何卒前条次第御聞届被成下候様、百姓共一統奉願上候、此外御願之筋、毛頭無御座候、以上。

 明治二年十一月

  上新川郡小百姓惣代
   浅生村    伊七郎
   塚越村    宗三郎
   寺田極楽寺村 文三郎
   同村     権右衛門

 上新川郡治局
  勧農局

   御役所

以上の通り、本嘆願書においては十村やその手代に掛らない百姓による租米の直納、新京枡への統一、御蔵の管理を百姓に委任し人足料を節減すること、口米と称する手数料や検品時の下敷を百姓に委ねること、天保年間以来度々増額されている手上高や手上免の是正すること、御郡打銀の減税とその監査を行うこと、御返上米を免除すること、肥料の買い上げと配給を行うこと、米価を引下げることを要求しており、鎌田久明は11月28日(10月25日)の忠次郎の要求と総合して、租税徴収の公正や租米の自主管理から進んで十村、手代及び肝煎を百姓が公選すること、租米や雑税の減免、肥料の配給制、一名につき一石二斗と定めた農事雇人の給与減額に対する反対及び諸物価の引下げの五つに農民たちの諸要求を整理している[69][70][48]

首班の詮議と処遇

12月8日(11月6日)の嘆願書提出の後も伊七郎をはじめとする四名については、郡治局に拘置の上、取調を継続していたが、12月20日(11月18日)に至って文三郎と権右衛門は放免された[71]。一方、首魁と目された忠次郎については、独り郡治局における詮議も受けず、そのまま金沢の民政所の牢に入れられ、1870年8月18日(明治3年7月22日)よりようやく本格的な詮議が開始された[71]。十数回にわたる詮議のうちに1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県を経て、同年12月9日(同年10月27日)に忠次郎は処刑された[72][73]。その言い渡しは次の通りであった[72]

     新川郡塚越村  忠次郎

   斬 罪

右之者、不届之趣有之、頭書之通、今日御仕置被仰付候条、可得其意候也。

  辛未十月二十七日   執法係

伊七郎については1871年12月15日(明治4年11月4日)に准流10年の刑に処せられたが、夙に病気のため上新川郡肝煎惣代より帰宅願が出されており、また本家の浅生村伊兵衛より償金13両2歩が納付され赦免された[71]。一方、宗三郎は同年2月に獄中死している[74]

十村や手代に対する処遇と救貧策の実施

這般の騒動に際し、藩庁は1869年12月27日(明治2年11月25日)付けを以て新川郡中の十村及び新田才許16名の解任を命じ、新たに18名を撰んで当分才許の任に当たらせた[75][76]。新任された者のうち、たとえば東加積組当分才許の岡部平右衛門はもと能登国の御扶持人であって卓越した識見を有する人物であったといわれ、この例のとおり他郡において抜きん出て信任の厚かった人々が選ばれて当分才許となっている[75][76]。なお、岡部平右衛門は本騒動に係る注進状や嘆願書等の史料を蒐集して「去巳年新川郡暴動一件御詮義方留」と題する記録を作成した人物であり、この記録は1930年昭和5年)11月に小野武夫が平右衛門の後裔たる岡部恒宅に蔵せられていた原本を翻刻しのちに公刊されている[77]

新任の才許らは各所において人々の宣撫に努め、これが奏功して人心は漸く落ち着き、1870年1月18日(明治2年12月17日)には高野組の大窪新村及び米沢新村、嶋組の向新庄村及び川端村、大三位組の入膳新村及び三位村の大屋村及び横尾村が年貢を皆済し、肝煎に2貫文、組合頭に1貫文、百姓には300文の賞金が下付された[78]。また、同月には才許らの代表が御取扱米39973石と現銭御払米11900石余を含む51300石余と、困窮人取扱の役用のため16万1千貫文の拝借方を願出ている[78]。加えて前年貸渡の丁銭の返上猶予や農民の収入増のために川普請の実施等の策が講じられた[78]。藩庁としても伊七郎の嘆願書にあった肥料たる屎物代の問題について新川郡分として1800貫の無利息での貸与を行い、また他国の米の購入によって食糧問題の解決を図る等の施策を進めている[78]。また貧民救恤策としては、次の布告の通り1870年1月27日(明治2年12月26日)から炊出しを実施した[79]

一 凶作下々困窮飢渇に至り、御達候処、十二月廿六日ゟ七歳以下弐合八歳以上三合宛所々におゐて、粥焚立被下候事

 粥ハ米、籾引割粉(麦之代也)、粉糖、塩也

右午二月日ゟ連日御渡、三月廿九日ニ而止、晦日ゟ出作人家田えは、壱人米六升宛、夫賃え見込被下、出作不致者は、七歳以下七十文、八歳以上百文宛被下候事。

救恤策実施のために上下一致の協力が呼びかけられ[80]、1870年2月25日(明治3年1月25日)にはその費用へ充当するため、職員の年俸の半額を寄付させている[81][82]。その趣意は次の通りであった[82]

昨巳年夏以来霖雨無度、気候不順、終に非常之凶荒と相成、客冬一旦之処は多分之御償米等を以漸皆済は為致候得共、平年に比較候而は莫大之御取不足に付、一時米価騰踊、小前末々困難に陥、饑餓之者不少、元来貧民御救済之儀は一日も難被捨置急務に付、精誠糶米等を以無油断手当有之候得共、頻年過分之不時御入費相成、平生之御用途すら差支、内外万緒一時差湊、最早被成方無之深致心痛候折柄、職俸之内差上度旨建言之人々も有之、旁委細知事様え申上候処、御変革に付而は百拾石以上格外減禄、加之諸職員減省に付一同職務繁劇、失脚も相掛、物価高貴之折弥増可為難儀と熱御指渡、指向極貧窮之者御賙血之方へ被宛候段御下知有之候間、何れも前段之御趣意柄等致会得、御用立可申候。

一、御貸家有之向は、出役之費用不被下候に付、御借上之半高年中日割を以被下候事。
一、他国へ為詰等罷越人々は、発足日より帰着日迄御借上無之事。
一、無禄之人々は御借上無之事。
一、小者之儀は御借上無之事。

右之趣被得其意、諸職員等職俸有之向え可被申渡候也。

 正月廿五日        大参事

後年の研究と評価

歴史学者による評価

1903年(明治36年)11月23日から高岡新報に井上紅花が古老への取材を通して『塚越ばんどり騒動』の連載を開始し、1904年(明治37年)3月14日に完結、1933年(昭和8年)には本連載をまとめて紅花叢書の一巻として刊行されている[83]。本書は自ら「此有名なる騒動の顛末を、一篇の文章となしたるもの、未だ之あらず」と称する通り、ばんどり騒動研究の最初期のものであり「騒動研究史の中ではもはや古典的のものとなっているが、必読の書である」と評価されている[84]。こののち、1930年(昭和5年)に小野武夫が『日本農民史料聚粋』に基本史料を公刊し、鎌田久明をはじめとする歴史学者は政治的経済的観点から本騒動の論評を行っていった[84]

鎌田久明は本騒動における農民らの諸要求を「領主権力および商業・高利貸資本の収奪を排除しつつ、小商品生産者として生長していこうとする封建的農民のそれであり、同時に前期的農業プロレタリアートおよび都市細民層の要求をふくんでいる」とし、しかも十村やその他の村役人の百姓による公選という政治的要求を掲げている点に着目し、「封建的生産関係からの小農民および前期的プロレタリアートの解放をめざしている限り、明らかに市民革命の萌芽である」と評価した[85]

若林喜三郎加賀国江沼郡で起こったいわゆるみのむし騒動との比較対象を通じて、「この騒動(引用者註:みのむし騒動)の根底に、「貧農=小作人とその半身たる前期的プロレタリアート」のエネルギーが秘められており、世直し一揆の範疇に属する点において、ばんどり騒動との類似点を見出すことは容易であろう」と論じている[86]

坂井誠一は農民らの嘆願書において「御一新の御趣意を以て」との文言が繰り返し用いられていることに着目し、「彼らは明治維新が本質的にはなにか理解できないまでも、自分らの生活を向上させてくれるあたらしい政治を期待していたのである。ことに一揆の要求書には明示されていないが、忠次郎および伊七郎の口上書に、「十村同手代及び惣代肝煎の諸役は百姓入札を以て命ぜられ候様」といっているように、彼らは年貢収納機関である十村およびその手代の公選制を志向していたことはあきらかである。ここに御一新政治の最末端期間に彼ら自身の代表者を送りこむことによって、長年くるしめられてきた封建体制を打破し、近代社会を志向する意図を、かすかながらよみとることができるのである」と評した[87]

佐藤誠朗は1870年(明治3年)の越後国古志郡栃尾郷におけるいわゆる藤七騒動をめぐる論考において、村落的生活という視野を超えた政治的綱領を持ち得ない農民が、国家的な時代の変革期において「村役人の不正追求などの日常的闘争(村方騒動)に支えられて、個々の村役人ではなく地方的権力(藩・県)に向けて、村役人の単純な交替ではなく」制度自体の廃止を迫り、「封建的支配・収奪機構の廃絶を提起することによって、支配階級の動揺・分裂・矛盾を深化させ、いろいろな政治的勢力の多様な政治運動を呼び起こし、人民支配の再編にむけての彼らの階級的対処を軌道づけるところの、権力をめぐる闘争として評価しうるかどうか」が慶應以前における世直し一揆との質的相違を語る上において重要な視座であって、「明治元年(一八六八)八月の越後村松藩(南蒲原郡下田郷)の騒動、十月の会津の世直し騒動、二年(一八六九)十月の越中新川郡の「ばんどり騒動」などとともに、藤七騒動の特質は、大庄屋・村役人の罷免、村役人の特権廃止を前提とする村役人の公選を中心的課題としたという点において、地域変革を通じての地方的権力の変革と、それを媒介にしての日本全体の変革の問題にかかわり合いを持つに至ったのであって、慶応段階の、より厳密に言えば幕府倒壊以前の世直し騒動とは段階的に区別されるべきものである」と論じた[88]

地域における評価

本騒動の首魁と目された忠次郎は、自由民権運動の盛り上がる中で義民として顕彰の対象となり、1880年(明治13年)10月には塚越村の同人宅附近に宮崎忠次郎久明塚と彫られた顕彰碑が建立された[1][89][90]。忠次郎の地元においてはその後も1930年(昭和5年)3月27日に忠次郎祭を挙行、同年10月に当時の農林大臣であった町田忠治の揮毫による義人の碑が建立され、1968年(昭和43年)には百周忌が催行されるなど、顕彰が続いている[91][92]。また、中新川郡舟橋村の無量寺においては1992年(平成4年)よりばんどり騒動より着想を得た「越中舟橋ばんどり太鼓」と称する太鼓の演奏が行われている[93]

忠次郎に対する評価

詳細については宮崎忠次郎の項を参照

忠次郎が義民としての評価を受ける一方、彼が純然たる貧農の出身ではなく、その家は奉公人を雇傭する10から20石の高持であり、自身も奥州や函館を遊訪した経験を有する人物であったことに認識の階級制の問題として注意をうながす郷土史もある[94][95][96]。『富山県議会史』は「この騒動は浅生村伊七郎(紺屋営業)らの幹部を中心とする農民大衆の革命的エネルギーで展開したものであり、忠次郎はキャップとして迎えられた感じが深い」と評している[97]。また、義民としての評価にそぐわない側面を指摘する史学者もある[98]

脚注

  1. ^ a b c d e 国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典 第十巻』(440頁)、1989年(平成元年)9月、吉川弘文館
  2. ^ 越中及び飛騨において用いられた蓑の一種で、雀のことをばんどり雀と称し、着用した姿がこれに似ていたことから来た名称だという(黒部市誌編纂委員会編、『黒部市誌』(278頁)、1964年(昭和39年)11月、黒部市役所)
  3. ^ a b 富山県編、『富山県史 年表』(221頁)、1987年(昭和62年)3月、富山県
  4. ^ a b 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 下巻』(ばんどり騒動項)、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  5. ^ フランク・ギブニー編、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 5 改訂版』(347頁)、1984年(昭和59年)10月、ティビーエス・ブリタニカ
  6. ^ 京都大学文学部国史研究室日本近代史辞典編集委員会編、『日本近代史辞典』(517から518頁)、1958年(昭和33年)11月、東洋経済新報社
  7. ^ 富山新聞社大百科事典編集部編、『富山県大百科事典』(730から731頁)、1976年(昭和51年)8月、富山新聞社
  8. ^ 高柳光寿・竹内理三編、『角川日本史事典 第二版』(791頁)、1974年(昭和49年)12月、角川書店
  9. ^ a b c 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(38から39頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  10. ^ a b 富山県、『越中史料』第3巻(791頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
  11. ^ a b 富山市史編さん委員会編、『富山市史 通史〈下巻〉』(44頁)、1987年(昭和62年)1月、富山市
  12. ^ a b c d e f g h i 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(40頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  13. ^ 富山県、『越中史料』第3巻(725頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
  14. ^ 富山県、『越中史料』第3巻(774頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
  15. ^ 八木均、『天保の飢饉とふるさとの備荒倉』(47頁)、1996年(平成8年)6月
  16. ^ a b 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 上巻』(郡治局項)、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  17. ^ 富山市史編さん委員会編、『富山市史 通史〈下巻〉』(47頁)、1987年(昭和62年)1月、富山市
  18. ^ 若林喜三郎、『加賀藩農政史の研究 下巻』(888頁)、1972年(昭和47年)3月、吉川弘文館
  19. ^ 富山県、『越中史料』第2巻(504頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
  20. ^ 坂井誠一編、『わが町の歴史・富山』(144頁)、1979年(昭和54年)10月、文一総合出版
  21. ^ 井上紅花、『江花叢書 第十一巻 塚越ばんどり騒動』(16から17頁)、1933年(昭和8年)3月、倉田精美堂
  22. ^ 富山県下新川郡役所編、『下新川郡史稿 上巻』(869頁)、1909年(明治42年)9月、富山県下新川郡役所
  23. ^ 1994年(平成6年)時点の魚津市印田にあたる地域(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(201頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 鎌田久明、「明治二年越中ばんどり騒動について」、『本庄先生古稀記念 近世日本の経済と社会』所収(351から377頁)、1958年(昭和33年)5月、有斐閣
  25. ^ a b c d 鎌田久明、『日本近代産業の成立』(194から195頁)、1963年(昭和38年)9月、ミネルヴァ書房
  26. ^ 1994年(平成6年)時点の魚津市下村木町等にあたる地域(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(205頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  27. ^ 富山県、『越中史料』第3巻(793頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
  28. ^ 1994年(平成6年)時点の富山市水橋上川原にあたる地域(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(537頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  29. ^ 1994年(平成6年)時点の富山市水橋清水堂から中新川郡舟橋村舟橋にあたる地域(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(544頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  30. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡立山町塚越にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(280頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  31. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町神田にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(224頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  32. ^ 1994年(平成6年)時点の富山市水橋新堀にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(537頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  33. ^ a b c 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(41頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  34. ^ 小野武夫編、『日本農民史料聚粋 第六巻』(322頁)、1942年(昭和17年)1月、巌松堂書店
  35. ^ a b c d e 鎌田久明、『日本近代産業の成立』(196から197頁)、1963年(昭和38年)9月、ミネルヴァ書房
  36. ^ a b 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(42から43頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  37. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町湯上野にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(216頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  38. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町石仏にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(221頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  39. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町広野新にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(239頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  40. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町広野にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(238頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  41. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町北島にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(215頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  42. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡上市町法音寺にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(216頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  43. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡舟橋村竹内にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(281頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  44. ^ 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(45頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  45. ^ a b c 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(46頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  46. ^ 境関所史編さん委員会編、『境関所史』(83頁)、1968年(昭和43年)10月、朝日町役場
  47. ^ 1994年(平成6年)時点の富山市水橋佐野竹にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(544頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  48. ^ a b c d e f g h 鎌田久明、『日本近代産業の成立』(198から199頁)、1963年(昭和38年)9月、ミネルヴァ書房
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  50. ^ 1994年(平成6年)時点の中新川郡立山町小林にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(264頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
  51. ^ 1994年(平成6年)時点の滑川市七口にあたる(平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(304頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社)
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  71. ^ a b c 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』(53頁)、1981年(昭和56年)3月、富山県
  72. ^ a b 富山県、『越中史料』第3巻(804及び877頁)、1909年(明治42年)9月、富山県
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  90. ^ 平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』(280頁)、1994年(平成6年)7月、平凡社
  91. ^ 義人宮崎忠次郎百二十年祭実行委員会編、『義人宮崎忠次郎百二十年記念誌』(39から41頁)、1989年(平成元年)11月、義人宮崎忠次郎百二十年祭実行委員会
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  94. ^ 朝日町編、『朝日町誌 歴史編』(230頁)、1984年(昭和59年)8月、朝日町
  95. ^ 入善町誌編纂委員会編、『入善町誌』(974から975頁)、1967年(昭和42年)8月、入善町役場
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  97. ^ 富山県議会編、『富山県議会史 第一巻』(31頁)、1977年(昭和52年)12月、富山県議会事務局
  98. ^ 玉川信明、『越中ばんどり騒動 明治維新と地方の民衆』(178から189頁)、1985年(昭和60年)3月、日本経済評論社

参考文献

  • 富山県、『越中史料』第2巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  • 富山県、『越中史料』第3巻、1909年(明治42年)9月、富山県
  • 富山県下新川郡役所編、『下新川郡史稿 上巻』、1909年(明治42年)9月、富山県下新川郡役所
  • 井上紅花、『江花叢書 第十一巻 塚越ばんどり騒動』、1933年(昭和8年)3月、倉田精美堂
  • 小野武夫編、『日本農民史料聚粋 第六巻』、1942年(昭和17年)1月、巌松堂書店
  • 鎌田久明、「明治二年越中ばんどり騒動について」、『本庄先生古稀記念 近世日本の経済と社会』所収、1958年(昭和33年)5月、有斐閣
  • 前田育徳会編、『加賀藩史料 藩末篇 自元治元年 至明治四年』、1958年(昭和33年)4月、広瀬豊作
  • 鎌田久明、『日本近代産業の成立』、1963年(昭和38年)9月、ミネルヴァ書房
  • 黒部市誌編纂委員会編、『黒部市誌』、1964年(昭和39年)11月、黒部市役所
  • 入善町誌編纂委員会編、『入善町誌』、1967年(昭和42年)8月、入善町役場
  • 境関所史編さん委員会編、『境関所史』、1968年(昭和43年)10月、朝日町役場
  • 坂井誠一、『県史シリーズ 16 富山県の歴史』、1970年(昭和45年)2月、山川出版社
  • 若林喜三郎、『加賀藩農政史の研究 下巻』、1972年(昭和47年)3月、吉川弘文館
  • 富山県議会編、『富山県議会史 第一巻』、1977年(昭和52年)12月、富山県議会事務局
  • 坂井誠一編、『わが町の歴史・富山』、1979年(昭和54年)10月、文一総合出版
  • 佐藤誠朗、『幕末・維新の政治構造』、1980年(昭和55年)8月、校倉書房
  • 立山町編、『立山町史』、1984年(昭和59年)2月、立山町
  • 朝日町編、『朝日町誌 歴史編』、1984年(昭和59年)8月、朝日町
  • 富山県編、『富山県史 通史編Ⅴ 近代 上』、1981年(昭和56年)3月、富山県
  • 富山市史編さん委員会編、『富山市史 通史〈下巻〉』、1987年(昭和62年)1月、富山市
  • 富山県編、『富山県史 年表』、1987年(昭和62年)3月、富山県
  • 国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典 第十巻』、1989年(平成元年)9月、吉川弘文館
  • 義人宮崎忠次郎百二十年祭実行委員会編、『義人宮崎忠次郎百二十年記念誌』、1989年(平成元年)11月、義人宮崎忠次郎百二十年祭実行委員会
  • 平凡社地方資料センター編、『日本歴史地名大系第一六巻 富山県の地名』、1994年(平成6年)7月、平凡社
  • 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 上巻』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社
  • 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 下巻』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社

関連項目




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