騒動後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 09:04 UTC 版)
清右衛門は在職6年で改易処分となった。奉行の退役など藩上層部の人事も大きな異動が発生したが、買米制そのものは引き続き実施された。米穀流通の不円滑と米価騰貴により、騒動の後も城下で「群盗」が横行し、天明7年7月の石巻における打ちこわしなど、暴動は大小諸都市に集中して発生した。 「安倍清騒動」は仙台城下初の打ちこわしであり、慶長7年(1602年)3月に城下建設の苛酷な工事に反発して下級武士の小人たちが起こした小人騒動とともに、仙台城下の二大騒動と呼ばれた。騒動の翌年の銀札発行や鋳銭による財政立て直しにも失敗し、藩の権威は大きく失墜した。 仙台藩は、買米制度で米を現地価格で買い上げ、江戸へ運んで売却したその差益をもって、藩の財政難を切り抜けてきた。米を高く売るため、高価格を維持する必要があったので、農民が他領へ運びだす「脱石」という行為には厳罰を課していた。脱石を防ぐために川筋の街道要所に「御石改所」を設置し、恒常的に郡村留(穀留め)を行なっていた。飢饉の際には米価が上がるので、江戸で高く売却して利益を上げようとしたが、そのせいで藩内の余裕米が足りなくなり、飢饉の被害がより激しくなったという事情もこの騒動の背景にあった。 のちに、榴ヶ岡(つつじがおか)で「安倍清さわぎ」という芝居興行が催された。その狂言は大当たりしたが、その影響を恐れた藩当局は、この出し物を3日後に禁じたという。
※この「騒動後」の解説は、「安倍清右衛門」の解説の一部です。
「騒動後」を含む「安倍清右衛門」の記事については、「安倍清右衛門」の概要を参照ください。
騒動後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:49 UTC 版)
斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士は福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実家の騒動を見過ごせず、斉興が脱藩士を引き渡すよう強要するもこれを拒絶、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部に事態の収拾を訴えた。以前より斉彬を買っていた正弘は将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである(「隠居して茶などたしなむがよい」という意向によるものとみなされ、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされた)。将軍命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、ついに斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居し、家督を斉彬に譲った。 ちなみに騒動の首謀者とされるお由羅の方にはその後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去した。 なお、小説家の海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「『斉彬の蘭癖が藩を潰す』という懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたのが久光と西郷の確執の原因であるという。
※この「騒動後」の解説は、「お由羅騒動」の解説の一部です。
「騒動後」を含む「お由羅騒動」の記事については、「お由羅騒動」の概要を参照ください。
騒動後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 11:30 UTC 版)
同年9月19日、幕府上使小倉忠右衛門と石川弥左衛門に泉城が明け渡され、岡本家は改易。岡本家の家臣のうち、54人が武士を捨て帰農することになった。義政は、27年間久留米藩に預けられたのちに赦免となり、江戸の上野広小路の屋敷を買い住み、ここで一生を終える。義政には、義住という嫡男がおり、義住は、母方の実家である森田大田原氏に預けられて、義住自身は、のちに父義政とともに江戸に暮らすが、その子孫は森田の地に戻り、子孫を残している。また万吉は、騒動の翌年に18歳で没し、1~2年事件の決行を待っていれば、問題は自然解決していたという皮肉な結果となった。 一方で蟄居処分を受けていた福原資盛は後に赦されて処分を解かれ、また改易されていた千本長勝も蔵米500俵の蔵米知行を与えられ旗本の職務に復帰する事を赦されている。 保真の墓については、岡本家の菩提寺である鏡山寺ではなく、泉城の北側にある保真が開基となった瑞雲院にあったものと思われるが、今は位牌のみが伝わり、墓は残されていない。
※この「騒動後」の解説は、「泉騒動」の解説の一部です。
「騒動後」を含む「泉騒動」の記事については、「泉騒動」の概要を参照ください。
- 騒動後のページへのリンク