霜月騒動後の鎌倉幕府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 15:06 UTC 版)
実権を握った平頼綱は泰盛の弘安改革を否定し、幕府の人事は得宗を頂点に大仏流、名越流を中心に北条一族の支配となり、足利氏ら旧来の御家人の姿は無かった(得宗専制)。京都では泰盛と協調して弘安徳政を行っていたと見られる亀山上皇の院政停止(持明院統伏見天皇即位)が行われた。 権勢を誇った頼綱も8年後の平禅門の乱で滅亡することになるが、泰盛の弟の子孫(安達氏)及び頼綱の弟の子孫(長崎氏)は、再び取り立てられて両家間で婚姻関係を結ぶまでになり、北条得宗家が滅亡した東勝寺合戦において両家とも得宗家と運命をともにすることになった。
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