弘安改革
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弘安7年(1284年)4月、元寇後の恩賞請求や訴訟が殺到し、再度の蒙古襲来の可能性など諸問題が山積する中で時宗が死去する。14歳の嫡子・貞時は北条一門が平頼綱と連動して不穏な動きを見せる中、7月に第9代・執権に就任した。時宗に追随して出家した泰盛は法名覚真と称し、幕政を主導する立場となると後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行い、「新御式目」と呼ばれる新たな法令を矢継ぎ早に発布した(弘安徳政)。その規模と時期から見て、時宗存命中からその了承の元に準備されていたものと見られる。将軍権威の発揚を図り、引付衆などの吏員には職務の厳正と清廉を求めた。得宗には実務運営上の倫理を求め、御内人の幕政への介入を抑制する事、伊勢神宮や宇佐神宮と言った有力寺社領の回復に務める事、朝廷の徳政推進の支援などが行われた。これによって伝統的な秩序を回復させて社会不安の沈静化に務めると共に、本所一円地住人の御家人化を進めて幕府の基盤の拡大と安定を図り、幕府の影響力を寺社・朝廷にまで広げて幕府主導による政治運営の強化、国政改革を行おうとしたと考えられている。ほぼ同時期に京の朝廷でも亀山上皇による朝廷内改革・徳政が行われており、泰盛と上皇の連動性が指摘されている。だが、御内人の抑制ではその代表である内管領・平頼綱と対立し、性急な寺社領保護によって寺社への還付を命じられた一部御家人や公家の反感を招き、泰盛は次第に政治的に孤立していく事になる。
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