泉騒動
泉騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/28 13:56 UTC 版)
正保元年(1645年)3月10日に旗本・岡本保真を甥の岡本義政が泉城内で暗殺し、その証拠隠滅を図ったとされる事件について、保真遺族などを代表して千本長勝(資盛妹婿、従兄弟)が江戸幕府に「保真は謀略によって殺された」と訴えた。これに対して義政も「長勝と福原資盛の陰事である」と反論し、この件は幕府評定所にて審議されることになった(泉騒動)。 この一件は同年9月22日に裁定が下り、岡本義政・千本長勝の両名は改易となり、資盛も連座する形で蟄居処分を受けた。しかし、資盛は後に蟄居処分を解かれ千本長勝も蔵米500俵で旗本に返り咲く一方で、岡本義政に再び領が与えられることはなく義政方にのみ罰が下された形で決着している。
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泉騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 09:22 UTC 版)
正保元年(1645年)3月10日に旗本岡本保真を甥の岡本義政が泉城内で暗殺し、その証拠隠滅を計ったとされる事件が起こった。長勝は保真側の遺族代表として、幕府に対し「保真は謀略によって殺された」と訴えた。この訴えを義政は「長勝と福原資盛の陰事である」と反駁し、この件は幕府評定所にて審議されることになった(泉騒動)。 この事件は義政の罪を証明する有力な証拠が無く、よって義政側優位の情勢であったが、審議の最中の7月10日に、幕府の大老土井利勝が没したため、幕府はこの事件に構っていられる状態ではなくなった。9月2日、喧嘩両成敗という形で訴えられた岡本義政と訴訟を起こした千本長勝を改易とし、福原資盛には蟄居処分を言い渡し、また義政を九州久留米藩にお預けとして、幕引きとなった。 しかし後に福原資盛は蟄居を解かれた。寛文5年(1665年)7月17日には長勝も赦され、同年12月25日に蔵米5百俵の蔵米知行を与えられ、およそ20年ぶりに旗本復帰が叶った。一方の岡本義政に再び禄が与えられることはなく、結果として義政方にのみ罰が下された形で泉騒動は決着した。
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泉騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 11:30 UTC 版)
暗殺から数ヶ月後、保真の不可解な死を義政の犯行であると見抜いた保真の義兄である千本長勝が幕府に「保真は謀略によって殺された」と訴えた。これに対して義政も「長勝と福原資盛(長勝の従兄弟)の陰事である」と反論し、泉騒動は幕府評定所にて審議されることになった(泉騒動)。 当初は、義政の弁舌が長け義政優位で審議は進められていったが、審議の最中の7月10日に、幕府の大老土井利勝が没し、これにより幕府はこの事件に構っていられる状態ではなくなり、9月2日、喧嘩両成敗とばかりに岡本家と訴訟を起こした千本家の両家に改易、福原資盛に蟄居処分を言い渡し、また義政を九州久留米藩にお預けとして、裁判の幕引きを計った。 ただ、後に福原資盛は蟄居を解かれ、千本長勝も蔵米500俵で旗本に返り咲く一方で、義政に再び領が与えられることはなく義政方にのみ罰が下された形となった。
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