岡本氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/04 11:50 UTC 版)
天正19年(1591年)に岡本正親が泉城に移ると、約6年の歳月をかけて泉城は改修された。城に石垣などはなく、規模としても、それほどの歳月をかけるほどものではなかったが、岡本氏の禄高が3800石程度(現在の価値で2億8500万円程度の年収)であったこと、城下町の開発も同時並行で行っていた財政的事情もあったろうが、この時期、豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われており、領内開発を理由にこの労役を軽減するため、開発をわざと長引かせたという政治的理由もあったろうと考えられている。さらに、この頃正親は、豊臣秀吉の命により周辺地域の検地を行っており(太閤検地)、これらの役目により築城が遅れたという事情もあった。この改修を終えると、正親は隠居し、家督を娘婿の子である義保に譲った。 義保は、徳川家の旗本として江戸と泉城を往復し、泉城を留守にすることが多かった。そして、義保が没し、その子義政の代になると泉騒動が勃発。正保元年(1644年)3月10日、義政は、偶発の事件を装い叔父の岡本保真を泉城内にて家臣に殺害させる。しかし、これが幕府に訴えられ岡本氏は改易。義政は、九州の久留米藩(有馬氏)に28年間にも渡ってお預けとなり、泉城は、正保元年(1644年)9月19日に幕府の役人に明け渡され、廃城となった。
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