安倍清騒動
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刈田郡曲竹村の肝入が書いた『天明三年癸卯大飢饉記録』(『蔵王町史』資料編Ⅱ)や、藩士の源意成が著した「飢饉録」に、天明3年(1783年)9月に仙台城下で発生した安倍清騒動が記されている。 この年、仙台藩は大冷害で56万5000余石の減収で、餓死者・疫病者は合わせて30万人にのぼった。飢饉に対応して、藩は国産会所が8月2日から1人1升の「御穀御払」をおこなった。続いて、石巻港から出港させる直前の買米を、清右衛門の判断で至急城下に回送し、二日町の米商人・大黒屋清七の店に「穀産処(御穀売方所、米御売方所)」を設けて、市民向けに「払米」を販売させた。9月14日から清七の屋敷前に栗の大木で柵をつくり、出入口から1人ずつ中に入れ、勘定所役人らの立合のもと、1人玄米1升宛の払米をした。しかし、払米は朝五ツ半から八ツ(午前9時から午後2時)ごろまでと限定された上に、「急渇之者」が大勢押しかけたことで、死人が出る騒ぎとなった。 9月18日には払米は売り尽くされ、買えなかった者が若年寄の大条内蔵人の屋敷へ嘆願をしに行き、月番の奉行への掛け合いも行なわれた。 9月19日、米を買えなかった者たちが広瀬川の中瀬河原に大勢集まった。その日の夜、安倍清右衛門屋敷に数千人に膨れ上がった群衆が押し掛けた。代表となった大番士の布沢儀蔵が直談判したが、屋敷では清右衛門は外出しているなどと言って交渉は進まず、やがて耐え切れなくなった群衆は屋敷内に押し込み、門や玄関、表塀、裏長屋を打ち破った。「御穀売方所」であった大黒屋も同様に打ちこわされ、その店先で鍛冶・髪結・焼肴屋・香具師など4人の者が捕縛された。 「飢饉録」によれば、清右衛門による郡村留のため仙台城下に米が入らず諸人は餓死に追いやられた。また、御納戸金で買上げた米を御恵みとして払い下げたが、金1両に2斗の相場なのに、1斗8升の高値で売り払った。さらに、前年から在々の御囲穀を残らず買いあげて、江戸へ回米し売却しながら、自分はまだ多量の米を囲置しているということであった。このようなことから、自然誰言うとなく大勢集り、騒動になったということであった(阿刀田令造『天明天保に於ける仙台の飢饉記録』15頁)。 買米制によって領内の産米を売却して藩は財政再建を図ろうとしたが、その政策が凶作による城下町飯米の不足を招いた。民衆は、それが安倍個人の米買い占めによるものと解釈し、また買米の払い下げ価格は市中価格よりつりあげられたことから、町民だけでなく藩士の恨みをも買って、安倍とそれをとりまく商人たちに非難が集中する結果となった。 布沢儀蔵や捕縛された者たちは上をも恐れざる所行として厳しく糾弾されたが、清右衛門のしたことも「奸巧(かんこう)」深く、民衆の怨みをかったとして、一派を召し捕り詮議が行なわれた。その結果、清右衛門の米穀売方所を廃止、払米は四穀町の米問屋に行なわせることとなった。
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