安倍氏・賀茂氏の分立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:09 UTC 版)
安倍氏・賀茂氏による陰陽道の支配が確立したとはいえ、その内実は複雑であった。朝廷・院の公事のみならず、摂関家から地下官人の私事まで宮廷社会における陰陽道に対する需要は院政期以後も高く、陰陽寮(官人陰陽師)の充実に伴って安倍氏・賀茂氏は複数の流に分立した。彼らは朝廷に対して陰陽道・天文道・暦道に関する業務を一族として請け負っていた(官司請負制)が、一方で安倍氏・賀茂氏の内部においてもそれぞれの嫡流や陰陽寮の地位を巡る争いを激化させる。こうした中で平安時代末期から鎌倉時代初期になると、賀茂在憲・在宣父子や賀茂家栄、安倍泰親・安倍晴道・安倍広基などが活躍した。彼らは摂関家や鎌倉幕府と結びつき、中には安倍国道のように鎌倉に下って幕府に直接奉仕する人々(関東陰陽道/鎌倉陰陽師)もいた。 室町時代に入ると本来下級貴族の家柄であった安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏嫡流の土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
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