平安時代末期から鎌倉時代初期とは? わかりやすく解説

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平安時代末期から鎌倉時代初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 03:41 UTC 版)

伊東氏」の記事における「平安時代末期から鎌倉時代初期」の解説

工藤氏一族である工藤祐隆(すけたか、工藤家次(いえつぐ)とも)は、伊豆国大見宇佐見伊東からなる久須見荘を所領としていた。 出家し法名寂心久須美入道久須見氏)と号した祐隆は、早世した嫡男・祐家(すけいえ)の代わりに後妻連れ子であった継娘産んだ子を養子として嫡子とし伊東荘を与えて祐継(すけつぐ)と名乗らせた。一方早世した祐家の子・祐親も養子とし、次男として河津荘を譲り河津氏を名乗らせた。 『曽我物語によれば、祐親は祐継を「異姓他人継娘の子」と呼び真名本曽我物語』では祐継は祐隆が継娘に産ませた子で、祐親にとって叔父であるとしている。 伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し9歳嫡男金石(のちの工藤祐経)の後見義弟河津祐親託した。祐親は河津荘から伊東荘に移住し河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせ、次男祐清伊東を名乗せた工藤祐経金石元服後名乗り)は約束通り祐親の娘・万劫御前を妻とした。その後祐経は14歳で祐親に伴われ上洛し、平家の家人として平重盛仕える。しかし祐親はこれにより祐経を都へ遠ざけた隙に所領押領した。 伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。祐親は娘・万劫取り戻して相模国土肥遠平嫁がせる所領も妻をも奪われた祐経は憤り、祐親親子の殺害計画安元2年1176年10月、祐経が送った刺客により、伊豆狩り場河津祐泰射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ち原因となる。

※この「平安時代末期から鎌倉時代初期」の解説は、「伊東氏」の解説の一部です。
「平安時代末期から鎌倉時代初期」を含む「伊東氏」の記事については、「伊東氏」の概要を参照ください。

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