平安時代末期から鎌倉時代とは? わかりやすく解説

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平安時代末期から鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:18 UTC 版)

少弐氏」の記事における「平安時代末期から鎌倉時代」の解説

武藤資頼平知盛仕えた平家武将であったが、一ノ谷の戦い時に源氏方に投降しその後許され源頼朝家人となる。平家滅亡後大宰少弐任じられ平家であった九州武家対す鎌倉方抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国守護となる。この頼朝による抜擢が、その後少弐氏興隆きっかけである。 資頼の子少弐資能の代より、少弐姓として定常的用いるようになる鎌倉時代文永11年1274年)、弘安4年1281年)に元寇起こり、資能は大宰府責任者として子の少弐経資少弐景資とともに日本軍先頭に立ち、元の大軍と戦うこととなる。弘安の役の際には経資の子少弐資時壱岐戦死、資能自身戦闘の際に蒙った傷で死去するなど、一族として大きな犠牲を払うこととなったこうした功もあり、戦後には筑前豊前肥前壱岐・対馬など北部九州における最大守護にまで成長して少弐氏最盛期築き上げた

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平安時代末期から鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 16:50 UTC 版)

小鴨氏」の記事における「平安時代末期から鎌倉時代」の解説

伯耆では以前から紀氏小鴨氏東西の二大勢力の間で勢力拡大による抗争が行われていた。これに中央での治承・寿永の乱絡み寿永元年1182年)、西伯耆有力者源氏方の紀成盛平氏方の小鴨介基保との間で大規模な合戦が行われた。基保はこれ以前にも治承3年1179年2月伯耆国ツホカミ山の戦い野津蔵人仲吉と共に東郷家平討ち取っており、源平合戦治承・寿永の乱)の影響受けた内乱十数年にわたって続いていた。元暦元年1184年)、平宗盛求め応じ基保は出兵する留守中に紀成盛の軍に伯耆半分制されてしまい、平氏滅亡後すぐに帰国して紀成盛軍勢戦ったその後建久3年、基保は源頼朝から教書下賜され国内での地位保った

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