平安時代末期から鎌倉時代
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武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる。平家滅亡後、大宰少弐に任じられ、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして、鎮西奉行をはじめ、北九州諸国の守護となる。この頼朝による抜擢が、その後の少弐氏の興隆のきっかけである。 資頼の子少弐資能の代より、少弐を姓として定常的に用いるようになる。鎌倉時代の文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)に元寇が起こり、資能は大宰府の責任者として子の少弐経資や少弐景資らとともに日本軍の先頭に立ち、元の大軍と戦うこととなる。弘安の役の際には経資の子の少弐資時が壱岐で戦死、資能自身も戦闘の際に蒙った傷で死去するなど、一族として大きな犠牲を払うこととなった。こうした功もあり、戦後には筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬など北部九州における最大の守護にまで成長して、少弐氏の最盛期を築き上げた。
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平安時代末期から鎌倉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 16:50 UTC 版)
伯耆では以前から紀氏と小鴨氏の東西の二大勢力の間で勢力拡大による抗争が行われていた。これに中央での治承・寿永の乱が絡み寿永元年(1182年)、西伯耆の有力者で源氏方の紀成盛と平氏方の小鴨介基保との間で大規模な合戦が行われた。基保はこれ以前にも治承3年(1179年)2月、伯耆国ツホカミ山の戦いで野津蔵人仲吉と共に東郷家平を討ち取っており、源平合戦(治承・寿永の乱)の影響を受けた内乱は十数年にわたって続いていた。元暦元年(1184年)、平宗盛の求めに応じ基保は出兵するも留守中に紀成盛の軍に伯耆の半分を制されてしまい、平氏滅亡後すぐに帰国して紀成盛の軍勢と戦った。その後、建久3年、基保は源頼朝から教書を下賜され国内での地位を保った。
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