鎮西奉行とは? わかりやすく解説

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ちんぜい‐ぶぎょう〔‐ブギヤウ〕【鎮西奉行】

読み方:ちんぜいぶぎょう

鎌倉幕府職名文治元年(1185)源頼朝天野遠景派遣して九州地方御家人統制させたのに始まる。のち、権限守護移り鎮西探題設置実質的機能失われた鎮西守護


鎮西奉行

読み方:チンゼイブギョウ(chinzeibugyou)

鎌倉幕府九州統治機関、またその機関の長。

別名 鎮西奉行人、鎮西守護


鎮西奉行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 02:22 UTC 版)

鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)とは、鎌倉幕府成立期において、鎮西(九州)の御家人の指揮統制を行った職。『吾妻鏡』には「鎮西奉行」や「鎮西守護(ちんぜいしゅご)」の呼称がみえる[1]。ただし、幕府の正式な官職とする明確な資料による裏付けはないとされ、幕府から鎮西武士の統轄を委任された者の呼称とする説もある[1]

元寇後に鎌倉幕府は北条兼時北条時家を「鎮西奉行人」として派遣して異国警固番役を強化し、後に鎮西奉行に代わって設置された鎮西探題との過渡的な役割を果たした[2]

概要

鎮西奉行は1185年文治元年)末から1186年(文治2年)頃に、九州の御家人統率と軍事警察を担うために天野遠景が派遣され、大宰府に守護所を置いたのが始まりである[3]

しかし、天野遠景に比べて以後に鎮西奉行に就いたとされる人物は権限が小さく、同一の職といえるかも含めて争点となっており、遠景の後任者については以下のように説が分かれる[4]

瀬野精一郎は、遠景後の後継者について諸説あることをまとめた上で、「鎮西奉行は一般的呼称にすぎず、鎌倉幕府の正式な官職名ではなかったとする説(佐藤進一説)もあるごとく、その性格がなお不明瞭な点が多いことに起因しているといえる」[5]と指摘している。

『佐賀市史』は鎮西奉行に中原親能、武藤資頼が就任し、大宰少弐に就いた武藤資頼が子の資能に大宰少弐と鎮西奉行を継がせて代々この職を世襲したとしている[3]。しかしその後、永仁元年(1293年)に鎮西探題が設置され、肥前国守護とともに北条氏が継承することとなり、鎮西探題と少弐氏の対立が鎌倉幕府滅亡まで続いたとしている[3]

脚注

  1. ^ a b c d 瀬野精一郎「鎮西奉行考」『九州文化史研究所紀要』、九州文化史研究所、37-42頁。 
  2. ^ 佐伯 弘次. “蒙古襲来以後の日本の対高麗関係”. 九州大学. 2025年3月18日閲覧。
  3. ^ a b c 一 鎌倉時代”. 佐賀市. 2024年9月22日閲覧。
  4. ^ 鎮西奉行天野遠景”. 太宰府市. 2024年9月22日閲覧。
  5. ^ 『国史大辞典第9巻』p.687a

参考文献

  • 『国史大辞典第9巻』国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、1988年。

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