平安時代末期 - 安土桃山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 06:45 UTC 版)
「伊達郡」の記事における「平安時代末期 - 安土桃山時代」の解説
平安時代末期には奥州藤原氏の勢力圏となり、藤原氏一族の信夫佐藤氏の支配下にあった。佐藤氏は信夫郡伊達郡を本拠地に、現在の福島県中部、山形県南部まで勢力を張った。平安時代中期に大きな勢力をもった会津の恵日寺が衰退した後は、会津まで勢力圏に加えた。 源頼朝による奥州征伐のとき、伊達郡国見町の厚樫山(あつかしやま:当時は国見山とも)山麓に奥州藤原氏の防衛線が張られ、事実上の決戦場となった。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、佐藤氏は滅亡を免れたものの信夫荘(信夫郡の松川以北)に押し込められ、伊達郡は佐藤基治を破った常陸入道念西に与えられた。念西は常陸国伊佐郡を本拠地としていた関東武士で、伊達郡に移り伊達氏を名乗るようになった。以後、豊臣時代に伊達政宗が現在の宮城県・岩手県南部に転封されるまで、伊達氏支配となる。なお、明治維新まで、伊達氏の公式な読みは「いだて」であった。江戸時代に、「いだて」または「いだち」から「だて」へと読みが変遷したと思われる。一方、佐藤氏はその後伊勢国に改易になったり、一部は伊達氏や相馬氏などに仕えたりした。
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