豊臣時代
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豊臣政権の蔵入地は太閤蔵入地(たいこうくらいれち)とも呼ばれ、織田政権が残した蔵入地を継承しつつも全国平定の過程で更に拡充を続けた。また、諸大名の不祥事などを口実に領内の要地を没収して蔵入地に編入する事も行われた。慶長3年(1598年)の統計によれば、全国1860万石のうち198万石が蔵入地とされており、最盛期で畿内及び北九州を中心に220万石を越えていた(蔵入地の減少は直臣などを大名に取り立てたりすることで生じる)。代官には秀吉直臣上がりの大名や吏僚をはじめ、豪商や僧侶、服属した大名やその家臣を任命するケースが多かった。大名が代官の場合は「大名預地型」、吏僚や僧侶・豪商などの非大名が代官の場合には「吏僚代官型」と呼ばれている。豊臣家の私的な所領と言うよりも、豊臣政権が持つ国有地の意味合いが強く、関ヶ原の戦いで勝利し政権の主導権を握った徳川家康により、多くの太閤蔵入地は東軍についた諸大名へ豊臣政権からの恩賞として分配された。
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豊臣時代
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この時代の遺物、遺構の検出は多くみられる。追手向櫓の礎石列、麒麟曲輪や追手門の遺構もこの時代である。しかし二ノ丸の同時代の該当発掘例はなく、二ノ丸は豊臣時代以降に開発された可能性がある。城下でも同時代の遺構が発掘されたが、礎石建物や大規模な整地の痕は認められていないので、大規模な城下町が整然と建てられた可能性は低いと考えられている。 2014年(平成26年)9月、市教育委員会が天守台頂上の発掘調査を行い、礎石などの遺構や金箔をあしらった瓦を発見したと発表した。これにより、これまで絵図などに一切描かれず、存在が確認できなかった天守が実在したことが判明した。大小の礎石の大きさや並びから建物の加重を分散・軽減する構造であったと推測されている。
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豊臣時代
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天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟が5万を号する島津軍を率いて筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に討ち死にした(岩屋城の戦い)。このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦し、島津本陣への奇襲に成功するが、島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている。 その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と要請された。 その後も秀吉の九州平定で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の竹迫城・宇土城などを攻め落とした。更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏・祁答院氏・入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した。 戦後、秀吉はその功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」、「九州の逸物」(立花文書によると原文:誠九州之一物ニ侯。)と高く評価したという。 天正15年(1587年)9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200(2,800や3,000諸説ある)と輜重隊を率いて出陣、既に一揆方の伏兵の計を察知し、これを逆用して先に兵を三隊に分けて伏兵を配置、小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将の大津山出羽守を討ち取った。そして佐々軍の平山東・西付城を包囲する一揆方隈部氏配下の有働兼元軍を統増や米多比鎮久ら騎馬鉄砲の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取り、「火車懸」という戦術を繰り出した。その内、十時連貞・水野勝成・安田国継三将の連携も大活躍したと伝わる。 立花・高橋軍は佐々軍に兵糧を支援し平山東・西付城に入城したが、一揆方(和仁親実・辺春親行・大津山家稜)3,000の兵に包囲された。その対応のため、先に輜重を運輸した人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信と十時惟由を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で正面に和仁、左右に辺春、大津山そして後方より有働軍に挟撃され、双方の旗本武将が乱戦となる。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有働下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布惟信・十時惟由の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。 その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城や軍隊の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍したが、城将の大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。 12月26日、佐々成政、安国寺恵瓊と共に一揆の首謀者の隈部親永の城村城を攻め落とし、隈部一族ら12人を預かり、翌年5月27日、柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人の討手と真剣勝負、放し討ちにした。放し討ちの場面に震撼された監察役の浅野長政は秀吉に報告した、秀吉は「さすがは立花左近である」と宗茂を讃えた。 同年、農業用水を確保するのために矢部川を分流して、半人工運河の花宗川の開発に着手したとされる。 天正16年(1588年)5月下旬に上洛し、7月5日に従五位下侍従、28日に従四位下に叙任される。同時に羽柴の名字を名乗ることを許され、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)、小田原征伐に陣中見舞い、岩槻や江戸などに参陣。2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた。
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