豊臣時代初中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
「郡山城 (大和国)」の記事における「豊臣時代初中期」の解説
1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている。 本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等の曲輪が多く普請され、大規模なものになった理由として、豊臣秀長の居城として以外に、大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。また天守台には5層の天守が建っていたとの伝承があるが、「伝承でいわれるような五層の天守閣が建っていたかどうかは疑問」といい、建築学的にはもう少し小さなものではなかったかとされている。また城下町を大いに発展させ、同年奈良の市中で行われていた商売をやめさせ、郡山城の城下町に集中させた。本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の14町がみられる(『郡山惣町日記』)。このうち最後の鍛冶屋町は枝町となり、城下町の基本はそれ以外の「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。 豊臣秀長書状は壽福院に宛てた書状で、内容は豊臣秀長が着任した翌天正14年(1586年)3月筒井順慶の廟所や山林、筒井城の跡地等を壽福院に与える、としている。筒井定次が伊賀国に入封後、筒井城破却後の跡地や周辺の山林は壽福院に与え、筒井城があった添下郡の筒井村周辺は豊臣秀長が着任後も大きな変化はなかったと考えられている。 1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も文禄4年(1595年)に死去すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。
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