豊臣時代から有馬氏の入部まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 06:12 UTC 版)
「久留米藩」の記事における「豊臣時代から有馬氏の入部まで」の解説
天正15年(1587年)、九州仕置によって筑後3郡の7万5千石を領することになった小早川秀包は、久留米城を改修して居城とした。秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれ、文禄・慶長の役の戦功により13万石まで加増される。しかし、関ヶ原の戦いの際に西軍に与したため改易となる。 関ヶ原の戦いののち、筑後一国32万5000石は田中吉政の所領となった(柳河藩参照)。吉政は柳河城を居城とし、久留米城には子の田中則政(吉信)を置いた。田中家時代、久留米城の拡張が行われているが、慶長20年/元和元年(1615年)の一国一城令により破却されている。 元和6年(1620年)、2代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中家は改易となった。その所領は分割され、久留米を含む筑後中部・北部の21万石は有馬豊氏の所領となった。なお、筑後南部には立花宗茂の柳河藩(10万9000石)と、立花種次(宗茂の甥)の三池藩(1万石)が成立した。
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