豊臣政権期:佐々成政の統治、加藤・小西の二分統治
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豊臣秀吉より富山城を召し上げられ、大坂に留めおかれていた佐々成政に、九州国分で肥後の統治が命じられた。しかし佐々は改革を急ぐあまり反感を買い、肥後国人一揆が起きた。秀吉は、加藤清正・小西行長に鎮圧を命じ、一揆は終息した。佐々は責任を取らされて自害させられた。肥後を平定した両者は、肥後の所領を与えられ、加藤は主に北部、小西は中南部を所領にした。 慶長5年(1600年)、肥後南部24万石を領していた宇土城主小西行長は西軍につき、関ヶ原の戦いで西軍の敗将となり斬首、改易となった。
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