豊臣政権下伊達氏の家臣
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天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めるのを見て、政宗は秀吉に服従することを決めた。秀吉は奥州仕置によって伊達氏の新領土を削り、留守氏・陸奥石川氏らを取り潰したが、国分氏は伊達氏の家臣であるとみなされたため、改易の対象とならなかった。 その年の終わりに葛西大崎一揆が起こった。政宗は直ちに出陣し、会津の領主蒲生氏郷もその後を追った。が、氏郷は行軍中に政宗が一揆を扇動したという情報に接し、警戒して旧大崎領の名生城を攻め取ってそこに立てこもった。一揆を鎮圧した政宗は、秀吉からかけられる嫌疑を晴らすためにまず氏郷と和解しようとした。氏郷は伊達領内の安全通行のために留守政景か伊達成実を人質に名生に出すよう要求した。政宗は出陣中の両人のかわりに、国分盛重を遣わしたが、氏郷はこれに満足しなかった。結局政宗は伊達成実を呼び返した。成実、盛重、仲裁役の浅野正勝の3人は翌年元日に名生城に入り、信夫郡大森まで蒲生氏郷に同行した。 豊臣秀吉に弁明するため一時京都に上った政宗は、6月に米沢城からあらためて鎮圧軍を率いて発進した。このとき米沢城の留守に国分盛重と伊達宗清が残された。政宗は戦況や国替えの風聞についてたびたび書状をやって2人と連絡をとった。 この天正19年(1591年)、天正20年(1592年)頃に、国分盛重は伊達氏に復して伊達盛重と名乗ったらしい。これが盛重の最終的な名乗りとなる。 天正20年(1592年)に伊達政宗が朝鮮の役のため兵を率いて九州に参陣したとき、国分盛重は岩出山城を留守する複数の家臣の一人とされた。九州在陣中に政宗は亘理元宗・石川昭光・石川義宗・国分盛重に在陣の消息を報せる書状を送った。 文禄4年(1595年)7月に豊臣秀次が切腹させられると、秀次と近かった伊達政宗は「謀反」への関与を疑われた。許された政宗は、8月24日に主だった家臣と連名で身の潔白と今後の忠誠を記した誓詞を出した。その中に伊達彦九郎盛重の名があり、他の親類衆と共に一般の家臣より先(5番目)に書かれている。これらの出来事から、盛重個人は伊達氏一族の武将として重んじられていたことがわかる。
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