豊臣政権下での没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)
天正13年 (1585年)宗厳56歳の時、天下を統一した豊臣秀吉の命で大和の支配者が筒井氏から秀吉の実弟 豊臣秀長に代わり、大和の武士は伊賀に移るか帰農を迫られる。江戸中期に成立した『柳生雑記』では、秀長の統治下において「柳生の庄隠田の科に処せられて、累代の所領没収」されたとあり、柳生家が困窮した要因となったとされる。この件について太閤検地に伴う荘園制の崩壊で、柳生家が代々保持していた荘官としての権益を失ったことを示唆しているとする意見もあるが、詳細は明らかではない。 この危機的状況の中、天正13年の11月9日に宗厳は、近江愛智群百石を与える内容の差出人不明の知行文目録を授かっている。当時近江周辺は秀吉・秀長の甥の関白・豊臣秀次が領有していたことから、『玉栄拾遺』の編者はこの頃の宗厳は秀次に仕えていたのではないかと推測する。 その後の宗厳の領主としての活動は判然とせず、文禄2年(1593年)64歳で剃髪・入道して石舟斎と名乗ってからは兵法家としての活動に注力していく。同年9月には自身の兵法観を百九首の和歌として『兵法百首』にまとめ、その冒頭で「世を渡るわざのなきゆへ兵法を 隠れ家とのみたのむ身ぞ憂き」として、自らの境遇を自嘲的に歌っている。
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