豊臣政権による小田原征伐
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「相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「豊臣政権による小田原征伐」の解説
11月28日、豊臣政権は関東小田原の北条氏を追討することを決定し(小田原征伐)、関東・東北の諸侯に自軍への参加を求めた。相馬氏にも石田三成より、翌月の上旬に出仕を求める書状が届く。12月20日、政宗は中島宗久あての書状の中で、来春の相馬攻めのことを告げた(伊達文書)。 天正18年(1590年)1月3日、これより先に義胤は中島宗久の仲介で伊達との和議を請うが、これは難航した(伊達文書)。同日、政宗は中島氏当ての書状を送り、相馬の様子を探らせた(伊達文書)。相馬は岩城と伊達の和睦を知り、一方で単独では伊達への抵抗が難しいことを悟ったが、伊達氏の方略は北条と結んで佐竹を屈服させ、さらに豊臣氏に対抗するところにあった。1月20日、秀吉は政宗に書を送り、小田原への参陣を命じた。 3月18日、弟の中村城代相馬隆胤の兵が駒ヶ嶺を攻めて、敗北している(奥相茶話記・東奥中村記)。 4月3日、豊臣秀吉が小田原城を包囲した。4月上旬、会津黒川城西館において伊達政宗毒殺未遂事件が起き、政宗、弟の小次郎を斬る(伊達治家記録)。4月23日、相馬盛胤・義胤父子は新地城を攻めて失敗した(奥相茶話記・東奥中村記)。 5月9日、政宗は黒川城を出発(政宗記)。出発したが、下野国などを通過することができないため一旦帰国し、日本海側へ出て、越後から信濃を経由して小田原へ至る長旅を強いられた。5月14日、相馬隆胤が黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部(相馬市)の小豆畑で戦い、敗北。童生淵(相馬市)で討死した(奥相茶話記・東奥中村記・貞山公治家記録)。奥相茶話記によれば、この後、義胤は伊達家臣・中島宗求から降伏を勧められたが、討死を決意して「我と死生を同じくしようとする者は(相馬氏ら千葉一門の守護神である)妙見のご神前において神水を飲むべし。異儀を唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨みに思いはしない。」と言い、まさに最後の一戦を挑まんとしたという。この時一同が飲んだとされる御神水の井戸は、小高城跡に立つ小高神社の裏にある。 5月下旬、豊臣秀吉に謁見のため、義胤は相模小田原に赴く(相馬藩御経済略記 他)。 6月5日、政宗は小田原に到着。片倉景綱は相馬氏について、政宗留守中の戦闘(小豆畑の戦い)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた(天正十八年六月十四日 片倉景綱書状「原町市史中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗は相馬攻めを計画した(天正十八年六月廿六日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。
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