豊臣政権による小田原征伐とは? わかりやすく解説

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豊臣政権による小田原征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:30 UTC 版)

相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「豊臣政権による小田原征伐」の解説

11月28日豊臣政権関東小田原北条氏追討することを決定し小田原征伐)、関東東北諸侯自軍への参加求めた相馬氏にも石田三成より、翌月の上旬に出仕求め書状が届く。12月20日政宗中島宗久あての書状の中で、来春相馬攻めのことを告げた伊達文書)。 天正18年1590年1月3日、これより先に義胤は中島宗久の仲介伊達との和議請うが、これは難航した伊達文書)。同日政宗中島氏当て書状送り相馬様子を探らせた(伊達文書)。相馬岩城伊達和睦知り一方で単独では伊達への抵抗難しいことを悟ったが、伊達氏方略北条結んで佐竹屈服させ、さらに豊臣氏対抗するところにあった。1月20日秀吉政宗に書を送り小田原への参陣を命じた3月18日、弟の中村城相馬隆胤の兵が駒ヶ嶺攻めて敗北している(奥相茶話記・東奥中村記)。 4月3日豊臣秀吉小田原城包囲した4月上旬会津黒川城西館において伊達政宗毒殺未遂事件起き政宗、弟の小次郎斬る伊達治家記録)。4月23日相馬盛胤・義胤父子新地城を攻めて失敗した(奥相茶話記・東奥中村記)。 5月9日政宗黒川城出発政宗記)。出発したが、下野国などを通過することができないため一旦帰国し日本海側出て越後から信濃経由して小田原へ至る長旅強いられた5月14日相馬隆胤黒木宗元・亘理重宗の兵と塚部相馬市)の小豆畑で戦い敗北。童生淵(相馬市)で討死した(奥相茶話記・東奥中村記・貞山治家記録)。奥相茶話によればこの後、義胤は伊達家臣・中島宗求から降伏勧められたが、討死決意して我と死生同じくようとする者は(相馬氏千葉一門守護神である)妙見のご神前において神水を飲むべし。異儀唱えるものは来るに及ばず。我は少しも恨み思いはしない。」と言い、まさに最後一戦を挑まんとしたという。この時一同飲んだとされる御神水井戸は、小高城跡に立つ小高神社の裏にある。 5月下旬豊臣秀吉謁見のため、義胤は相模小田原赴く相馬藩御経略記 他)。 6月5日政宗小田原到着片倉景綱相馬氏について、政宗留守中の戦闘小豆畑の戦い)を言語道断とし、相馬討伐許し得ていた(天正十八六月十四日 片倉景綱書状原町市中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗相馬攻め計画した天正十八六月廿六日 伊達政宗書状原町市中世編年史料」)。

※この「豊臣政権による小田原征伐」の解説は、「相馬義胤 (十六代当主)」の解説の一部です。
「豊臣政権による小田原征伐」を含む「相馬義胤 (十六代当主)」の記事については、「相馬義胤 (十六代当主)」の概要を参照ください。

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