豊臣政権における「取次」の位置づけ
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「取次 (豊臣政権)」の記事における「豊臣政権における「取次」の位置づけ」の解説
山本博文によって「豊臣政権の大名統制機構」として位置づけられた「取次」であるが、誰がどの大名の「取次」となるかを決め、任命したのは、秀吉であった。これに対し、豊臣政権の大老層の大名に対しては「取次」が存在しなかったという津野倫明の指摘がある。山本はこの指摘に対し、徳川氏・上杉氏・毛利氏・前田氏などの大老層は、大大名による連合政権であった豊臣政権においてその中心を構成しており、「取次」を経由することなく直接秀吉本人に話すことができ、なおかつ、秀吉自身もそうした地位と待遇を認めていたと説明している。言い換えれば、豊臣体制を構成する諸大名は、豊臣政権下にあって重層的な構造のなかにあった。そして、その重層構造の頂点に立っているのは秀吉個人だったのである。 伊達政宗が「御指南」であった浅野長政の個人的な見解を秀吉の内意と受けとめていたように、大名にとって「取次」となる人物のことばは秀吉その人のことばであった。諸大名は「取次」の背後にある秀吉の権威を畏怖しており、それゆえ「取次」となる人物への服従を余儀なくされていた。いっぽう、「取次」とされた人物に対し、秀吉自身が細かい指示を逐一あたえていたわけではなく、「取次」には秀吉の意をおしはかりながらも相手の顔も立てるような資質と才覚が求められていた。そうした資質や才覚に欠けると秀吉が判断したときは、「取次」役から外す、あるいは改易される場合さえあった。 したがって、必ずしも「取次」や「指南」の人物らによる合議の機関があったわけではなかった。また、複数の「取次」が一人の大名を相手にすることもあり、それぞれの指示や伝達がたがいに食い違うこともあった。「取次」は個々に秀吉に直結しながらも、それぞれの「取次」はたがいに分立しており、豊臣政権はこれらを統合する機関はもたなかった。豊臣政権の運営は秀吉個人の意志によって決定されていたのである。それゆえ、慶長3年(1598年)8月18日の秀吉の死去によって「取次」の体制が崩壊することは容易に予想され、それまで「取次」によって秀吉の意志を伝達していた豊臣政権が機能不全の状態に陥ることは不可避であった。
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