豊臣政権における「取次」の位置づけとは? わかりやすく解説

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豊臣政権における「取次」の位置づけ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 20:53 UTC 版)

取次 (豊臣政権)」の記事における「豊臣政権における「取次」の位置づけ」の解説

山本博文によって「豊臣政権の大名統制機構」として位置づけられた「取次」であるが、誰がどの大名の「取次」となるかを決め任命したのは、秀吉であった。これに対し豊臣政権大老層の大名に対しては「取次」が存在しなかったという津野倫明指摘がある。山本はこの指摘対し徳川氏上杉氏毛利氏前田氏などの大老層は、大大名による連合政権であった豊臣政権においてその中心構成しており、「取次」を経由することなく直接秀吉本人に話すことができ、なおかつ秀吉自身そうした地位待遇認めていたと説明している。言い換えれば豊臣体制構成する諸大名は、豊臣政権にあって重層的構造のなかにあった。そして、その重層構造頂点立っているのは秀吉個人だったのである伊達政宗が「御指南であった浅野長政個人的な見解秀吉内意と受けとめていたように大名にとって「取次」となる人物のことばは秀吉その人のことばであった諸大名は「取次」の背後にある秀吉権威畏怖しており、それゆえ取次」となる人物への服従余儀なくされていた。いっぽう、「取次」とされた人物対し秀吉自身が細かい指示逐一あたえていたわけではなく、「取次」には秀吉の意をおしはかりながらも相手の顔も立てるような資質才覚求められていた。そうした資質才覚欠けると秀吉判断したときは、「取次」役から外す、あるいは改易される場合さえあった。 したがって、必ずしも「取次」や「指南」の人物らによる合議機関があったわけではなかった。また、複数の「取次」が一人大名相手にすることもあり、それぞれの指示伝達たがいに食い違うこともあった。「取次」は個々秀吉直結しながらも、それぞれの取次はたがい分立しており、豊臣政権はこれらを統合する機関はもたなかった。豊臣政権運営秀吉個人意志によって決定されていたのであるそれゆえ慶長3年1598年8月18日秀吉死去によって「取次」の体制崩壊することは容易に予想されそれまで取次」によって秀吉意志伝達していた豊臣政権機能不全の状態に陥ることは不可避であった

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